福田恒存、文春文庫。
タイトルすら正しく表記できない不遇さが、既にしてこの本の一部を語っていると言っても過言ではない。戦後の国語国字改革を批判し、現代仮名使いの問題を指摘した名著。
ものすごくひらたく言えば、言語として正しいのは旧仮名遣いであり、現代仮名遣いの非合理性は頭おかしいとしか思えないから撤回しやがれコンチクショウ、という主張を、懇切丁寧明瞭明快に記した本。
日本政府が現代仮名使いを制定しようとした当初、表音文字という原則に従って「漢字撤廃、ローマ字表記」を目指していたと知った時にはさすがに開いた口が塞がりませんでした。既に現代仮名使いに慣れ親しんで半世紀世代、生まれてからずっと現代仮名使いで暮らしてきたわたしでも、発案者の脳(暴言につき省略)を疑いました。ローマ字表記って。英語などのアルファベットを使用する言語は、表音的で覚えやすいから教育にも宜しいというのが建前だそうですが、教育に宜しいのは難易度が高い方だし、英語の何処が表音的なのかと小(略)。
「こんにちは」「こんにちわ」さていずれが正しいのか、と尋ねられたときに「本日はお日柄もよく、という類の挨拶が縮まったものだから、今日は、すなわちこんにち『は』が正しい」と答えられる人は今日本人の何割くらいなんでしょう。「いちおう」と「いちよう」の区別がつかない若いお嬢さんが発生しているのを見ると、音韻なんて語意識に左右されるものを根拠にすることがいかに危険か、そして語意識が教育に左右されるものだなんてことは一目瞭然だと思うのですが、戦後の識者にはわからなかったようです。あまつさえ「タイプライターで書けないから」と、正気の大人とはとても思えないことも抜かもとい主張していたと聞いて頭を抱えました。
本論の焦点となっているのは、現代かな使いがいかに非合理的で矛盾しているか、という点です。「危うい」なのに「危ぶむ」。「〜尽くし」なのに「〜ずくめ」。「地面」は「じめん」なのに、「鼻血」は「はなぢ」。何より、「は行は、あ行あるいはわ行に転化」という法則が格助詞に限っては適用されない。旧仮名遣いに照らしてようやくわかる言葉も多い。その矛盾を活用法や語源をあげながら、丁寧に説明しています。発音にはとんと疎いのですが、それでも文字を目で追うだけで理解できる活用の正当性素晴らしい。
これだけ法則性のないものを「合理的」と主張する思考法がもう理解できないし、それで教育が簡便になるという発想には唖然とするばかり。戦後すぐに字体の改革案を提出して、占領軍に一蹴されたとかいう事実含めて、文化そのものである言葉をないがしろにしすぎ。ワープロ導入の際に、あの気持ちの悪い略字を勝手に差し込んだ奴は戦犯扱いでオッケー。森鴎外が略字しか出ない上に、正しい表記にすると文字化けするって何事ですか。
ネット上で見かける旧字旧仮名サイトが好きになれないことが多いのは、多分「現代かな使いで作成した文章を、そのまま旧仮名に自動変換しているだけ」に見えるからなのだと思います。もはやわたしたちの語意識は、戦前のそれとは比べるべくもないほどに破壊されているのでしょう。「一先づ」は知っていても、それを「まず先に」に適用して考えることの出来なかった自分に、ほとんど絶望に近い驚きを覚えました。
あの時代に「ワープロで漢字を自在に操れるようになる時代がくる」と明言していた著者の先見の明に感服。「宣長」「契沖」が開発されたいきさつを知って感動。「冒涜のとくが略字体なのはそれこそぼうとくだー!」と嘆き悲しんでいた卒論担当の教授が、専用ソフトをしきりに学生に勧めていたことを思い出します。
「すはち、英国民の考へ方はかうだ。われらの表記法は難しい。が、それが宿命とあらば、よろしい、それなら学校教育を一年早くはじめよう」
むちゃくちゃカッコいい。
日本語をこよなく愛する人、略字体の醜さが我慢ならない人、旧字旧仮名を愛する人、自分も旧仮名遣いで書いてみたいという誘惑を感じたことがある人、送り仮名のゆらぎが気になる人、そして、
「一、作家・評論家・学者、その他の文筆家。
一、新聞人、雑誌・単行本の編集者。
一、国語の教師。
一、右三者を志す若い人たち。」
におくる、最高の国語教本。
タイトルすら正しく表記できない不遇さが、既にしてこの本の一部を語っていると言っても過言ではない。戦後の国語国字改革を批判し、現代仮名使いの問題を指摘した名著。
ものすごくひらたく言えば、言語として正しいのは旧仮名遣いであり、現代仮名遣いの非合理性は頭おかしいとしか思えないから撤回しやがれコンチクショウ、という主張を、懇切丁寧明瞭明快に記した本。
日本政府が現代仮名使いを制定しようとした当初、表音文字という原則に従って「漢字撤廃、ローマ字表記」を目指していたと知った時にはさすがに開いた口が塞がりませんでした。既に現代仮名使いに慣れ親しんで半世紀世代、生まれてからずっと現代仮名使いで暮らしてきたわたしでも、発案者の脳(暴言につき省略)を疑いました。ローマ字表記って。英語などのアルファベットを使用する言語は、表音的で覚えやすいから教育にも宜しいというのが建前だそうですが、教育に宜しいのは難易度が高い方だし、英語の何処が表音的なのかと小(略)。
「こんにちは」「こんにちわ」さていずれが正しいのか、と尋ねられたときに「本日はお日柄もよく、という類の挨拶が縮まったものだから、今日は、すなわちこんにち『は』が正しい」と答えられる人は今日本人の何割くらいなんでしょう。「いちおう」と「いちよう」の区別がつかない若いお嬢さんが発生しているのを見ると、音韻なんて語意識に左右されるものを根拠にすることがいかに危険か、そして語意識が教育に左右されるものだなんてことは一目瞭然だと思うのですが、戦後の識者にはわからなかったようです。あまつさえ「タイプライターで書けないから」と、正気の大人とはとても思えないことも抜かもとい主張していたと聞いて頭を抱えました。
本論の焦点となっているのは、現代かな使いがいかに非合理的で矛盾しているか、という点です。「危うい」なのに「危ぶむ」。「〜尽くし」なのに「〜ずくめ」。「地面」は「じめん」なのに、「鼻血」は「はなぢ」。何より、「は行は、あ行あるいはわ行に転化」という法則が格助詞に限っては適用されない。旧仮名遣いに照らしてようやくわかる言葉も多い。その矛盾を活用法や語源をあげながら、丁寧に説明しています。発音にはとんと疎いのですが、それでも文字を目で追うだけで理解できる活用の正当性素晴らしい。
これだけ法則性のないものを「合理的」と主張する思考法がもう理解できないし、それで教育が簡便になるという発想には唖然とするばかり。戦後すぐに字体の改革案を提出して、占領軍に一蹴されたとかいう事実含めて、文化そのものである言葉をないがしろにしすぎ。ワープロ導入の際に、あの気持ちの悪い略字を勝手に差し込んだ奴は戦犯扱いでオッケー。森鴎外が略字しか出ない上に、正しい表記にすると文字化けするって何事ですか。
ネット上で見かける旧字旧仮名サイトが好きになれないことが多いのは、多分「現代かな使いで作成した文章を、そのまま旧仮名に自動変換しているだけ」に見えるからなのだと思います。もはやわたしたちの語意識は、戦前のそれとは比べるべくもないほどに破壊されているのでしょう。「一先づ」は知っていても、それを「まず先に」に適用して考えることの出来なかった自分に、ほとんど絶望に近い驚きを覚えました。
あの時代に「ワープロで漢字を自在に操れるようになる時代がくる」と明言していた著者の先見の明に感服。「宣長」「契沖」が開発されたいきさつを知って感動。「冒涜のとくが略字体なのはそれこそぼうとくだー!」と嘆き悲しんでいた卒論担当の教授が、専用ソフトをしきりに学生に勧めていたことを思い出します。
「すはち、英国民の考へ方はかうだ。われらの表記法は難しい。が、それが宿命とあらば、よろしい、それなら学校教育を一年早くはじめよう」
むちゃくちゃカッコいい。
日本語をこよなく愛する人、略字体の醜さが我慢ならない人、旧字旧仮名を愛する人、自分も旧仮名遣いで書いてみたいという誘惑を感じたことがある人、送り仮名のゆらぎが気になる人、そして、
「一、作家・評論家・学者、その他の文筆家。
一、新聞人、雑誌・単行本の編集者。
一、国語の教師。
一、右三者を志す若い人たち。」
におくる、最高の国語教本。
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