九鬼周造著、全注釈藤田正勝、講談社学術文庫。

「粋」とはなにか?に迫る日本哲学史上に残る名著。

むちゃくちゃカッコよかった。哲学の本を読んで「カッコいいー!素敵ー!キャー!」と叫ぶ日がくるとは夢にもおもわなんだ。硬質で洒脱、これが粋だよ粋だともー!と大暴れしたくなるような文章。おそろしく明快な論の立て方。序説から結論までの全体構造のうつくしさに打ち震えました。「論理的なものの美しさ」を目の当たりにするなんて滅多に出来ない体験しました。
「アキレウスは「そのスラリと長い脚で」無限に亀に緊迫するがよい」
直前に引いた菊池寛を踏まえての、この言い切り型には心臓わしづかみにされました。なんという劇的な転換か(「スラリと長い脚」のアキレウスと追われる亀の関係性がいきなりエロいことに!)。
序論は、「いき」を問うには一体どのような方法を取るべきか、という方法論からはじまっています。そして形式的抽象化によって見出される共通点、個別のものから普遍的な「本質」を求めるような「形相的」方法であってはならない、と本質論で「いき」を追求することをしりぞけています。のっけから本質論を除外し、ハイデガーの実存主義で行こうと宣言する九鬼周造に相当驚きました(哲学といえば本質論で、フッサール絡みの現象学で卒論書いて、「ハイデガーで卒論を書くと、必ずこける」という伝説まであるコースに所属していた目が節穴なわたし)。実存主義ってそういう主張だったかしらん。
「いき」の例として挙げられている為永春水、長唄、清元節、義太夫節、鳥居清長、ひとつひとつが憧れをかきたてる魅力に溢れて、形容詞をつけるならばそれこそ「粋」なのだけれど、これら日本文化の精髄が気軽に入手できないってどういうことなんでしょうねー、と落ち込み。読み返すたびに馬鹿の一つ覚えで「カッコいいー!」と叫びながら悶絶。「唄女とかいふ意気なのでないと、お気には入らないと聞いて居ました。どうして私のやうな、おやしきの野暮な風で、お気には入りませんのサ」なんて身悶えするですよ。
意外と薄手な本で、注釈をのぞくと更に薄くなることを考えると、論文としてはかなりの短さ。長大であるほどよいという傾向がある(長大であれば多少最後がぐだぐだになっても見て見ぬふり、ということもなくはない)世界でこれは度胸あるなあ。そして外国の論文を訳した場合に多いわけのわからなさとは全く縁のない完璧な日本語で、非常に読みやすかったです。翻訳物のわけのわからなさは、ほんとに洒落にならんです。まず自分の理解できる日本語に訳してから、内容を理解するという二度手間が非常に腹立たしい。注にあったデカルトの一文、「もし私が、私は見る、あるいは私は歩く、それ故に私はある(存在する)と言えば、そしてそれが、身体によってなされる視(見ること)、ないし歩行のことを言っているのだとすれば、この結論〔私はある〕は絶対的に確実なものではない」なんて余りの意味不明さにぽかーんとしてから爆笑してしまいました。そりゃ教授も原文読めって言うはずです。
日本人がずっと当たり前のこととして言葉にしなかったこと、ものを、言葉にしようとする試み。哲学が生きた学問であるならば、生きた現実を生きたまま闡明できるはず。「そうして、意味体験と概念的認識との間に付加通約的な不尽性の存するところを明らかに意識しつつ、しかもなお論理的言表の現勢化を「課題」として「無窮」に追跡するところに、まさに学の意義は存するのである」。これが心意気だ。すなわち「粋」だ。

解説を見るに、かなり現代仮名使いに直されて、あちこち送り仮名が付され、ひらがなに開かれている様子。全注釈と合わせて、読みやすさ抜群。全注釈素晴らしかった!ものすごくわかりやすい!解説も草稿から単行本までの変遷を押さえて実用性高いし。勘違い注釈に泣かされたことがある人にとっては、素敵注釈というのは何もにも代えがたい喜びです。講談社学術文庫はこの調子で頑張って欲しい。応援します。
自発的に哲学の本を買って喜んで読む日がくるとは、人生ってわからないものですね。

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