1600年関ヶ原。歴史の教科書にも載っている、あの戦いを司馬遼太郎が石田光成を中心に据えて書いたもの。
この説明だけで大体のところが想像できた人は楽しめる人。「なんで関ヶ原ってタイトルなのに物語開始時点で秀吉存命中なのー?!」というひとはまだまだ甘い人。なんの違和感もなく読み進めて、さて感想をどう書いたものかしら、と悩んでから「おお、実戦としての関ヶ原で終わらないのが司馬遼太郎節」と変な喜び方ををしたのがわたし。
読んでて当然というのがファンの態度だろうなーと申し訳なくなりこっそり隅っこの方へ退避して身を縮めつつ感想。まだ上巻だけしか読んでないので目に付いたところから。
石田光成と明智光秀が混ざってた。
最近、人間を混同しすぎです。記憶の中で、気の利いた茶の出し方をしたの小坊主が何故か明智光秀になっていました。それじゃ織田信長が拾ったのかい。織田信長が、鷹狩中に立ち寄った寺で茶を出した小坊主を気に入って連れて帰って反逆されて自害って、捏造にも程があると思いました。エピソードに齟齬がある時点でおかしいと気付け。
そして島左近は外見イメージが問答無用で原哲夫変換されてました。芳春院様も多分そう。
内容と関係ない感想が多いな今回。
で、最初の方でも言っていますが、やはり秀吉存命中から既に「関ヶ原」ははじまっていたという司馬遼太郎節が「アツイ」です。暗闘だって熱闘だい。豊臣が安定を失ったときから既に戦いは始まっている。潔癖憎まれっ子石田光成VS腹黒演技巧者徳川家康。他多数。主だった面子より、はしっこにちょこっと顔を出す程度の人物の方に男前が多いのはどうしてだろう。というか、主だった面子は根性悪いのばっかりだ。
懐かしい名前が多数登場するので、ついつい独り言で「利家たん久しぶりー」と恐ろしい愛称で呼んでしまい、はっと我に返るのを何度繰り返したか……「利家たん」なんてまだ公表できる部類です。宇喜多なんで「うきたん」って呼んでるしね!
昔は司馬遼太郎の本を読むたび「骨しか残っていないようなすかすか間が多い。なのになんでか長い話を書く人だ」と思っていたのですが、今読むと骨が太すぎて間がないと咀嚼しきれないことがよくわかります。一行に凝縮された情報量に瞠目せよー。これでみっしり肉までつけられたら、どんな長さになるのかと。そんな重たいもん(一部の趣味の人を除いて)誰が喜ぶのか。
そのうえ忠臣謀臣陪臣奸臣佞臣と多種多様な家臣の表現に「家康の人数が」「善美をつくし」と最近あまり聞かない素敵単語が続出するので楽しみもひとしお。
「この物語をどうやってはじめたいらいいか」と作者本人が地の文で言い出し、一文目に「いま、憶いだしている」。
作者の記憶によって語られていた歴史のエピソードが、いつの間にか主体となって語りはじめているこの大胆な地続きっぷりをどう説明したものかと今悩んでます。外側と内側が切り離されているのがフィクションのお約束みたいなものじゃなかったのかしらー。
視点と時間軸が現代から過去へとシフトするさまをとらまえて説明したかったのですが挫折。構造枠も一緒にずれてるはずなんだけど、これがもしや『薔薇の名前』訳者が触れていた問題の一部だったりしないかしらん。
この説明だけで大体のところが想像できた人は楽しめる人。「なんで関ヶ原ってタイトルなのに物語開始時点で秀吉存命中なのー?!」というひとはまだまだ甘い人。なんの違和感もなく読み進めて、さて感想をどう書いたものかしら、と悩んでから「おお、実戦としての関ヶ原で終わらないのが司馬遼太郎節」と変な喜び方ををしたのがわたし。
読んでて当然というのがファンの態度だろうなーと申し訳なくなりこっそり隅っこの方へ退避して身を縮めつつ感想。まだ上巻だけしか読んでないので目に付いたところから。
石田光成と明智光秀が混ざってた。
最近、人間を混同しすぎです。記憶の中で、気の利いた茶の出し方をしたの小坊主が何故か明智光秀になっていました。それじゃ織田信長が拾ったのかい。織田信長が、鷹狩中に立ち寄った寺で茶を出した小坊主を気に入って連れて帰って反逆されて自害って、捏造にも程があると思いました。エピソードに齟齬がある時点でおかしいと気付け。
そして島左近は外見イメージが問答無用で原哲夫変換されてました。芳春院様も多分そう。
内容と関係ない感想が多いな今回。
で、最初の方でも言っていますが、やはり秀吉存命中から既に「関ヶ原」ははじまっていたという司馬遼太郎節が「アツイ」です。暗闘だって熱闘だい。豊臣が安定を失ったときから既に戦いは始まっている。潔癖憎まれっ子石田光成VS腹黒演技巧者徳川家康。他多数。主だった面子より、はしっこにちょこっと顔を出す程度の人物の方に男前が多いのはどうしてだろう。というか、主だった面子は根性悪いのばっかりだ。
懐かしい名前が多数登場するので、ついつい独り言で「利家たん久しぶりー」と恐ろしい愛称で呼んでしまい、はっと我に返るのを何度繰り返したか……「利家たん」なんてまだ公表できる部類です。宇喜多なんで「うきたん」って呼んでるしね!
昔は司馬遼太郎の本を読むたび「骨しか残っていないようなすかすか間が多い。なのになんでか長い話を書く人だ」と思っていたのですが、今読むと骨が太すぎて間がないと咀嚼しきれないことがよくわかります。一行に凝縮された情報量に瞠目せよー。これでみっしり肉までつけられたら、どんな長さになるのかと。そんな重たいもん(一部の趣味の人を除いて)誰が喜ぶのか。
そのうえ忠臣謀臣陪臣奸臣佞臣と多種多様な家臣の表現に「家康の人数が」「善美をつくし」と最近あまり聞かない素敵単語が続出するので楽しみもひとしお。
「この物語をどうやってはじめたいらいいか」と作者本人が地の文で言い出し、一文目に「いま、憶いだしている」。
作者の記憶によって語られていた歴史のエピソードが、いつの間にか主体となって語りはじめているこの大胆な地続きっぷりをどう説明したものかと今悩んでます。外側と内側が切り離されているのがフィクションのお約束みたいなものじゃなかったのかしらー。
視点と時間軸が現代から過去へとシフトするさまをとらまえて説明したかったのですが挫折。構造枠も一緒にずれてるはずなんだけど、これがもしや『薔薇の名前』訳者が触れていた問題の一部だったりしないかしらん。
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