谷徹、講談社現代新書。
タイトルどおりの「現象学」入門書。卒論中の唯一にして最大の戦友(とも)。この本がなかったら、わたしは無事に卒論を仕上げることができたかどうか。
「ちょっと休憩」と称して設けられている「コーヒーブレイク」の項が、休憩どころではない難易度のとき、思わずタイトルに偽りあり!って突っ込みたくなります。突然「たとえば、ドゥルーズ的な「リゾーム」の概念かもしれない」って言われてもさっぱりわかりません。理解以前の問題として、ドゥルーズなんて読んだことないです(さすがに本文中ではこういった事態は注意深く避けられています)。
フッサールの「現象学」を素人にもわかるように非常に平易に簡潔に解説した入門書。他の人の評価も気になってネットで調べてみたところ、ものすごく評判が良かった。さもありなん。
フッサールはなぜ現象学という学問をはじめたのか?何を目指したのか?現象学とはフッサールにとってどういうものであったか、と現象学の「内容」よりも「ありよう」から先に入ります。これによって現象学が「手段」であり、問い詰める先がなに/何処であるのか明確になって、より内容がつかみやすくなっています。
序章 あなたと私が現象学だ
第一章 現象学の誕生
第二章 現象学の学問論
第三章 直接経験とは何か
第四章 世界の発生と現象学
第五章 時間と空間の原構造
第六章 他者の現象学
第七章 現象学的形而上学と事実学的諸問題
このわけのわからない単語の羅列が、読み進めるにつれて厳密に意味を定められた「説明」であることが読み取れるようになって、理解するということ、がどのようなことか実に強く体感することができます。ちょっと逸れますが、学術書に類する本を読むときに楽しいのは、なんとなく、曖昧に使っていた言葉が方法/道具として使用されるときにどれだけ精密なものとなるか、 思い知らされること。己の太刀打ちできない高所にいる人に、実践することによって無言で痛烈に罵倒されているような気分になって、何度体験しても楽しい。駄目な部分をこれでもかと踏みにじられる快感。
学問としての現象学は「あらゆる学問の基礎となる学問」として追及されます。わたしたちは、通常の生活では無意識に「三人称」で世界を見ているようなつもりでいます。ここに世界があって、空間があって、地球の日本のある県のある都市の現代に、大勢の一人として存在している。視点としてはドラマや三人称の小説を読むのに近いでしょうか。神様のように自分を含む生活や世界を外から見ることができるつもりになっている。しかし、実際のところわたしたちは「一人称」でしか世界を見ることはできず、わたしが見るものはわたしの目から見た限定的な世界でしかないということを忘れている。科学や技術が発達すればするほど、わたしたちは外から世界を眺めることができるようになって、自分の視点を忘れてしまう。この時忘れられてしまった視点、そこから見る「科学や技術によっておおい隠されてしまった世界」をもう一度発見し取り戻そうというのが現象学の試みなのです(外から世界を見る、というのは「神の視点で見る」ということそのままではないです。念のため)。
では、わたしたちはわたしたちの「外側」をどうやって見ているのか?わたしと世界はどのような関係にあるのか?(世界は私の外側なのか、わたしと世界は同じものなのか違うものなのか)。そしてわたしはわたしだけれど、今そこにいるあなたは一体なんなのか?
と、存在しているものごとの、根源的なところを問い、世界と存在についての究極の謎にたどりつく、大変に刺激的な学問なのであります。
世界、わたし、あなたがどうして存在しているのか、それらは一体全体「なに」なのか、大真面目に考えちゃう哲学ラブ。これだけ科学が発展しても出ない答えを追い求めて学問の象牙の塔に篭っちゃう哲学者って傍目にはとてもロマンチストに見えませんか?彼らは別に好きで閉じこもっているわけではなくて、学問として高次になればなるほど「足元が覆い隠されて現実から遠くなる」ために、世間一般、つまり足元から遠く離れざるを得なかっただけなのですが。哲学の本に書いてある「生きた学問になりたーい」というのは、こういうところからきた切実な思いなのですね。地に足ついた現実を求めれば求めるほど、空想の世界に近い、上のほうにふわふわ漂ってしまう悩み。なんだか可愛らしいような気がしてきました。
そしてきっと中途半端な理解と、中途半端な言語能力で書かれたこの感想のせいで現象学を誤解してまう人が出るに違いない。……この感想を読む人がいれば、という前提をすっ飛ばして確信。
ああ、懐かしい、師匠の本探してこようっと。
タイトルどおりの「現象学」入門書。卒論中の唯一にして最大の戦友(とも)。この本がなかったら、わたしは無事に卒論を仕上げることができたかどうか。
「ちょっと休憩」と称して設けられている「コーヒーブレイク」の項が、休憩どころではない難易度のとき、思わずタイトルに偽りあり!って突っ込みたくなります。突然「たとえば、ドゥルーズ的な「リゾーム」の概念かもしれない」って言われてもさっぱりわかりません。理解以前の問題として、ドゥルーズなんて読んだことないです(さすがに本文中ではこういった事態は注意深く避けられています)。
フッサールの「現象学」を素人にもわかるように非常に平易に簡潔に解説した入門書。他の人の評価も気になってネットで調べてみたところ、ものすごく評判が良かった。さもありなん。
フッサールはなぜ現象学という学問をはじめたのか?何を目指したのか?現象学とはフッサールにとってどういうものであったか、と現象学の「内容」よりも「ありよう」から先に入ります。これによって現象学が「手段」であり、問い詰める先がなに/何処であるのか明確になって、より内容がつかみやすくなっています。
序章 あなたと私が現象学だ
第一章 現象学の誕生
第二章 現象学の学問論
第三章 直接経験とは何か
第四章 世界の発生と現象学
第五章 時間と空間の原構造
第六章 他者の現象学
第七章 現象学的形而上学と事実学的諸問題
このわけのわからない単語の羅列が、読み進めるにつれて厳密に意味を定められた「説明」であることが読み取れるようになって、理解するということ、がどのようなことか実に強く体感することができます。ちょっと逸れますが、学術書に類する本を読むときに楽しいのは、なんとなく、曖昧に使っていた言葉が方法/道具として使用されるときにどれだけ精密なものとなるか、 思い知らされること。己の太刀打ちできない高所にいる人に、実践することによって無言で痛烈に罵倒されているような気分になって、何度体験しても楽しい。駄目な部分をこれでもかと踏みにじられる快感。
学問としての現象学は「あらゆる学問の基礎となる学問」として追及されます。わたしたちは、通常の生活では無意識に「三人称」で世界を見ているようなつもりでいます。ここに世界があって、空間があって、地球の日本のある県のある都市の現代に、大勢の一人として存在している。視点としてはドラマや三人称の小説を読むのに近いでしょうか。神様のように自分を含む生活や世界を外から見ることができるつもりになっている。しかし、実際のところわたしたちは「一人称」でしか世界を見ることはできず、わたしが見るものはわたしの目から見た限定的な世界でしかないということを忘れている。科学や技術が発達すればするほど、わたしたちは外から世界を眺めることができるようになって、自分の視点を忘れてしまう。この時忘れられてしまった視点、そこから見る「科学や技術によっておおい隠されてしまった世界」をもう一度発見し取り戻そうというのが現象学の試みなのです(外から世界を見る、というのは「神の視点で見る」ということそのままではないです。念のため)。
では、わたしたちはわたしたちの「外側」をどうやって見ているのか?わたしと世界はどのような関係にあるのか?(世界は私の外側なのか、わたしと世界は同じものなのか違うものなのか)。そしてわたしはわたしだけれど、今そこにいるあなたは一体なんなのか?
と、存在しているものごとの、根源的なところを問い、世界と存在についての究極の謎にたどりつく、大変に刺激的な学問なのであります。
世界、わたし、あなたがどうして存在しているのか、それらは一体全体「なに」なのか、大真面目に考えちゃう哲学ラブ。これだけ科学が発展しても出ない答えを追い求めて学問の象牙の塔に篭っちゃう哲学者って傍目にはとてもロマンチストに見えませんか?彼らは別に好きで閉じこもっているわけではなくて、学問として高次になればなるほど「足元が覆い隠されて現実から遠くなる」ために、世間一般、つまり足元から遠く離れざるを得なかっただけなのですが。哲学の本に書いてある「生きた学問になりたーい」というのは、こういうところからきた切実な思いなのですね。地に足ついた現実を求めれば求めるほど、空想の世界に近い、上のほうにふわふわ漂ってしまう悩み。なんだか可愛らしいような気がしてきました。
そしてきっと中途半端な理解と、中途半端な言語能力で書かれたこの感想のせいで現象学を誤解してまう人が出るに違いない。……この感想を読む人がいれば、という前提をすっ飛ばして確信。
ああ、懐かしい、師匠の本探してこようっと。
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