永井均、講談社現代新書。

<子ども>と自分で哲学をする人のための入門書。表紙に、
「悪いことをしてはなぜいけないのか。
 ぼくはなぜ存在するのか。
 この超難問を考える。」
と書いてある通りの内容。子どものころ不思議だった、大人が当たり前のことだとしか教えてくれなかったあの不思議、秘密に迫ろうとする感性が哲学の基であり、「ほんとうは哲学は子どもの素朴な疑問から発したものなのだ」と日本語の「哲学」という単語にまつわりつく、難解であるとか高級であるとかの暗くてじめじめしたイメージを振り払い、自分で哲学するということへ誘う一冊。
「ぼくは何故存在するのか?」という疑問は、自己と他者との明らかな隔絶を感じる人には非常に馴染むと思います。他人と他人の違い方と、ぼくと他人の違い方は、同じ「違い」でも異次元のようにかけはなれている。<ぼく>を他人の体の中に入れても、それは「他人の体の中に入った<ぼく>」であり、更に記憶を書き換えても、それは「記憶を書き換えられて他人の体の中に入った<ぼく>」であり、どこまで行っても<ぼく>は<ぼく>であるという議論が展開されています。わたしが理解するに、「ぼくのコピーロボットを作ってもそれはぼくじゃない。でもその中に<ぼく>を移せば、たとえ機械の体でもそれは<ぼく>だ」という状況で、「ではその中身、肝心要の<ぼく>って一体何なの?」と問うことなのでしょう。
でも、この論旨で行くと、他人たとえば君の中身を他人に移し変えても、それは唯一無二なる君だという状況が成立してしまう。これでは<ぼく>こそが他者とは違う唯一無二、比較のしようがないものとして問題を立てたのに、みんなに適用可能な「みんな」の問題、状況になってしまう。<ぼく>だけの話をしていたのに、どうしてみんなの話になってしまうのか?これは困った、さてどうしよう。
と、いう具合にこの存在する唯一無二の自分とは何か、をじりじり追求していく「なぜぼくは存在するのか」が前半、一つ目の問い。
二つ目は、悪いこと、としてはいけない、あるいは善いこと、としなければいけないの間には、なんの必然もないのに、どうして大人は「悪いことをしてはいけない」と言うのか?という問い。
悪いことは、たとえば他人に迷惑をかけるから/他人を不快にするから、できればしないほうがいい、できるだけしないほうがいい、その方が社会として上手く行くのだから、理想として、スローガンとして掲げるなら「してはいけない」になるのだよ、という自分解釈でわたしはとりあえず「上げ底」を埋めておきましたが、どうせなら徹底的にやってみるのが哲学でしょう。
と、いうわけで、「よいこと/わるいこと」には「善悪」「好嫌」の二つの軸があるという発見を手がかりに、道徳がわたしたちに要求する「悪いことはしてはいけない」の仕組みを解体しようという試み。
二つの問いはともに「結論はまだ出ていない」としめくくられます。それはつまり「このような問題や考え方がある、この問題を自分のやり方で考えてみないか?」という「お誘い」がこの本の目的なので、まったく当然の結果でもあります。
が、二つ目の問いが「二つの世界解釈がある」辺りで投げられてしまっているのが、いくらなんでも中途半端な感じです。一つ目はどうしてもここまでしか今は進めないんだ、と納得するところまで詰めてくれているので、余計に勿体無い。一つ目では「ああまだ未解決なんだ」という満足を得られましたが、二つ目は消化不良で苦しみそうです。
この本のもう一つのテーマは、おそらく粉飾された哲学のイメージに対する反抗なのではないかしら。哲学といったときに思い浮かぶ日本語のイメージは、「難解で高級で、陰湿で根暗でそして人生に対する教訓が得られる」で当たらずとも遠からずだと思われます。それは違う、哲学というものは<子ども>の発する、あのなんの利得もないのに知らずにはいられない疑問、そしてそれを解こうと、自分の力で考えることなのだと著者は繰り返します。この<子ども>の疑問は、大人になる頃には忘れ去れて「上げ底」されて埋められてしまいます。この「上げ底」が気になってどうしても忘れることができず、みんなが当たり前のように上げ底の上で暮らしているのに、自分を納得させる理屈を見つけて自力で上げ底を埋めないとみんなと同じラインに立てない、そういう不器用な<子ども>が哲学者に向いているのだという話を聞いて、深く納得しました。上げ底の上で生活する大人は、その上げ底を直視しないことで確固たる存在にしていますが、<子ども>は直視するが故にその上にあがることができない。こんな<子ども>には哲学が大きな助けになるのではないかしら。哲学をせざるを得ない大人は、中身が<子ども>で実社会を生きていくのがとても大変そう。
ところでわたし、竹田青嗣の本は一冊も読んだことがない上に、本文中で問題となった発言のほとんどがさっぱり理解できなかったのですが、<子ども>のための哲学をするよ、粉飾を剥ぎ取った、素手での哲学を始めるよ、という連載に対して「そういう現代思想の動向を踏まえて言うと」なんて発言するひとはとっても信用なりません。著作を読む前から、この人はもしかしてアレなんじゃないかしらと疑心を持ってしまいました。今後読む機会があれば、ぜひ自分の目で確かめてみたいです。
みんなが当たり前のように適応していることが、どうしても飲み込めない、ようやく理屈をつけて飲み込んで、みんなと同じところに行ってみたら、みんなそんな理屈、当然のように知っていて、それを踏まえて上にいた。こういう状況に頻繁に遭遇して、どうしようと途方に暮れる不器用っ子は読むと勇気付けられるんじゃないかと思います。

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