山尾悠子、国書刊行会。「人形と冬眠者と聖フランチェスコの物語」。
これはどう感想を書いたものか、とても悩みます。完璧に美しい。しかしさっぱりわからない。粗筋を抜き出したところで意味はないし、各パートの関連性は他の関連性をお互いに否定しあうような気配さえある。帯の「人形と〜」という説明はこれ以上なく簡素に正しいけれど、何一ついいあらわしてはいない。
「銅版」
「閑日」
「竈の秋」
「トビアス」
「青金石」
の五つの章から成り立つ連作小説。箱入りで布張り、ハトロン紙のカバーがついて、帯まで美しい装丁。
「わたし」は駅で列車を待つ間に、深夜営業の画廊に入る。画廊には古色蒼然たる銅版画が飾ってあり、画商が言うには小説の挿絵で画題を<人形狂いの奥方への使い><冬寝室><使用人の氾濫>という。
そういえば、以前にも似たような光景を目にしたことがある。そのときは「わたし」はまだ小さく、母に手を引かれてやはり列車待ちの時間潰しに画廊へ入ったのだった。その時見た絵のタイトルは<痘瘡神><冬の花火><幼いラウダーテと姉>だった。
霜月の第四週からはじまり、春先まで続く冬眠のさなかに、ふと目覚めてしまった冬眠者の少女は、冬眠の間締め切られる塔の棟の中から、窓の外を彷徨うゴーストを見つけ声を掛ける。冬眠しない使用人たちに助けを求めるが応じてもらえず、眠ることもできない少女は凍死を免れるため、塔の棟の窓からゴーストの導きを頼りに飛び降りる。
「閑日」と「竈の秋」で、冬になると冬眠してしまう冬眠者の物語を、「銅版」と「トビアス」で冬眠者の物語の小説についている挿絵と「わたし」の物語を、「青金石」では聖フランチェスコの元を訪れた冬眠者の青年が語る春の光景を描いています。
冬眠者の住む館を舞台にしたエピソードと、「青金石」はつながっている。「わたし」が語る絵のエピソードと、冬眠者の物語はつながっている。しかし「トビアス」で突然、「わたし」はにんげんが少なくなってガソリンの備蓄も尽きようとしている日本の片田舎で生まれ育ったと、冬眠者の館があったのとはかけ離れた世界の話をはじめる。そこから更に一転して「青金石」では西暦1226年の春、聖フランチェスコの物語に。
どう縺れてどう絡んでいるのか、どうほぐせばいいのか見当もつかない複雑なエピソードの関連は、一度読んだ程度では整理のしようがありません。最初は、「わたし」のエピソードに枠取られた冬眠者の物語、そこにまったく独立した聖フランチェスコの物語がついているという形に見えたのですが、感想を書くために整理しようとしたら、逆に絡んで渾然一体となってしまい、もはやわけがわかりません。
この辺りが参考になるかもしれません、『ラピスラズリ』刊行山尾悠子インタビュー。
http://www.kokusho.co.jp/yamaointv.htm
読む前にはレビューサイトで「したたるような美文」と言われていたので、てっきり牧野修のような腐敗寸前までただれた美文を想像していたのですが、物語の季節がもっぱら冬であるためか、予想とはまったく違った硬質で端整な文章ででありました。いやしかし完璧に美しいことは間違いありません。登場人物にも小道具にも舞台にも、作者の偏重がうかがわれないのが良かった。特定の傾向に執着するのは、それはそれでうつくしいのですが、この突き放したようなバランスの良さはたいそう心地よいです。
次は恐怖の『作品集成』8800円+税ですよ……。いつになることやら。
これはどう感想を書いたものか、とても悩みます。完璧に美しい。しかしさっぱりわからない。粗筋を抜き出したところで意味はないし、各パートの関連性は他の関連性をお互いに否定しあうような気配さえある。帯の「人形と〜」という説明はこれ以上なく簡素に正しいけれど、何一ついいあらわしてはいない。
「銅版」
「閑日」
「竈の秋」
「トビアス」
「青金石」
の五つの章から成り立つ連作小説。箱入りで布張り、ハトロン紙のカバーがついて、帯まで美しい装丁。
「わたし」は駅で列車を待つ間に、深夜営業の画廊に入る。画廊には古色蒼然たる銅版画が飾ってあり、画商が言うには小説の挿絵で画題を<人形狂いの奥方への使い><冬寝室><使用人の氾濫>という。
そういえば、以前にも似たような光景を目にしたことがある。そのときは「わたし」はまだ小さく、母に手を引かれてやはり列車待ちの時間潰しに画廊へ入ったのだった。その時見た絵のタイトルは<痘瘡神><冬の花火><幼いラウダーテと姉>だった。
霜月の第四週からはじまり、春先まで続く冬眠のさなかに、ふと目覚めてしまった冬眠者の少女は、冬眠の間締め切られる塔の棟の中から、窓の外を彷徨うゴーストを見つけ声を掛ける。冬眠しない使用人たちに助けを求めるが応じてもらえず、眠ることもできない少女は凍死を免れるため、塔の棟の窓からゴーストの導きを頼りに飛び降りる。
「閑日」と「竈の秋」で、冬になると冬眠してしまう冬眠者の物語を、「銅版」と「トビアス」で冬眠者の物語の小説についている挿絵と「わたし」の物語を、「青金石」では聖フランチェスコの元を訪れた冬眠者の青年が語る春の光景を描いています。
冬眠者の住む館を舞台にしたエピソードと、「青金石」はつながっている。「わたし」が語る絵のエピソードと、冬眠者の物語はつながっている。しかし「トビアス」で突然、「わたし」はにんげんが少なくなってガソリンの備蓄も尽きようとしている日本の片田舎で生まれ育ったと、冬眠者の館があったのとはかけ離れた世界の話をはじめる。そこから更に一転して「青金石」では西暦1226年の春、聖フランチェスコの物語に。
どう縺れてどう絡んでいるのか、どうほぐせばいいのか見当もつかない複雑なエピソードの関連は、一度読んだ程度では整理のしようがありません。最初は、「わたし」のエピソードに枠取られた冬眠者の物語、そこにまったく独立した聖フランチェスコの物語がついているという形に見えたのですが、感想を書くために整理しようとしたら、逆に絡んで渾然一体となってしまい、もはやわけがわかりません。
この辺りが参考になるかもしれません、『ラピスラズリ』刊行山尾悠子インタビュー。
http://www.kokusho.co.jp/yamaointv.htm
読む前にはレビューサイトで「したたるような美文」と言われていたので、てっきり牧野修のような腐敗寸前までただれた美文を想像していたのですが、物語の季節がもっぱら冬であるためか、予想とはまったく違った硬質で端整な文章ででありました。いやしかし完璧に美しいことは間違いありません。登場人物にも小道具にも舞台にも、作者の偏重がうかがわれないのが良かった。特定の傾向に執着するのは、それはそれでうつくしいのですが、この突き放したようなバランスの良さはたいそう心地よいです。
次は恐怖の『作品集成』8800円+税ですよ……。いつになることやら。
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