バタイユ、中条省平訳、光文社古典新訳文庫

ぜんぜんわからなかったので、参考になるレビューがあればなあとネットで検索したのですが、ざっと見たところ、みなさん「わかんねえー、よくわかんねえー!」と書かれているので途方に暮れつつ安心しました。よし、わからなくても何も恥ずかしいことはない。
以下適当に思ったことを。

「マダム・エドワルダ」
「ある街角で、不安が襲いかかった。汚らしく、うっとりするような不安だ」極限のエロスの集約。戦慄に満ちた娼婦との一夜を描く短編「マダム・エドワルダ」
これ以外にあらすじの書きようってないよね。開始8ページ目にして主人公が「自分を解き放つ!」のAAばりにズボンを脱いで露出しはじめて吹きました。もうあのAAしか浮かばない駄目人間。純文学を読んではいけないのかもしれません。
真面目な話をすると、冒頭にかかげられたこの太字部分が全て。
 きみがあらゆるものを恐れているのなら、この本を読みたまえ。だが、その前に断っておきたいことがある。きみが笑うのは、なにかを恐れている証拠だ。一冊の本など、無力なものに見えるだろう。たしかにそうかもしれない。だが、よくあることだが、きみが本の読み方を知らないとしたら? きみはほんとうに恐れる必要があるのか……? きみはひとりぼっちか? 寒気がしているか? きみは知っているか、人間がどこまで「きみ自身」であるか? どこまで愚かであるか? そしてどこまで裸であるか?
この文章をなにひとつ否定できないのはどうなの自分。本を持ったまま「あああ」って腰くだけました。あらゆるものは恐ろしいし、本の力は絶大無比だし、本の読み方はわからないし、いやまったく何もわかりませんね! あああああ
エドワルダが繰り返し「裸の女」として描写されますが、この「裸」というのは服を脱いでいるという意味ではなく、なんの備えもなく、構えもない、おおうもののない「じぶん自身」ひとつだけで世界にさらされているという意味で、併録の「目玉の話」の目玉のイメージを彷彿とします。
苦痛を紛らわすための放蕩が苦痛でしかないのに、それでも放蕩に身を捧げるなら(捧げずにいられないのなら)、放蕩が苦行のような聖性を帯びることも不思議ではないのかもしれません。不確定保留。

「目玉の話」
目玉、卵……球体への異様な嗜好を持つ少年少女のあからさまな変態行為を描いた「目玉の話」
変態という言葉ではなまぬるい、冒涜と背徳の限りが尽くされておりました。逆に、これらを変態と称するのが正しいなら、変態という言葉も随分安くなったものですね。キリスト教徒でないわたしでも鼻白むのに、これをフランスで読んだ人の気持ちやいかに。
バタイユと言えば「眼球を舐める」しか知らないまま、しかもはじめて読んだのがこの本です。推して知れ。いろいろと。
いわゆる変態趣味の本なら、よほどのことがない限り別になんとも思わないわ、という無駄な自信が崩れ去りました。その辺のエログロ猟奇趣味程度では太刀打ちできないエロス&変態。
これに比べると、一般にエロのために提示されるSMのなんという浅はかなことか。SM以外でも、性的な快楽だけを目的とした手段としてのエロは貧しくてさびしいですね。
彼らの行為は冒涜的であるけれど、キリスト教的な冒涜のもっと上を目指しているように思えます。冒涜のための冒涜。神よりももっと、切実な、なにごとかの否定あるいは肯定。
解説で触れられていた、「至高性」に関する方向で考えていいのかしら。

と、ここまで考えたとき、まだ主人公たちは教会で司祭を××××してませんです。あの場面は白眉なんだけれど、読んで不愉快になる人のほうが多そうですね。
突然『続篇の草案』が出てくるのがむしろ理解をさまたげるのですが、これはメタな視点の挿入で、作品としては完成しています……いますよね?
解説によると、バタイユは熱心なカトリックであったのが、信仰を放棄して放蕩にふけりつつ司書として働き、著作をおこなったとのこと。熱心なキリスト教徒が棄信してこれを書いたというのは、さもありなん、という感じ。
なんか三島(由紀夫)さんがバタイユ超好きらしいので、そっちからも読んでみたいです。

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