『黒龍の柩』

2005年10月24日 未分類
北方謙三、幻冬舎文庫。

まず笑いの種扱いしたことを、土下座してお詫びしたいと思います。切腹は痛いので勘弁して。だって帯を書いた人がいけないよこれは!てっきり、土方-坂本間で怪しい協議が成立して、途中から偽史・パラレル・大逆転・if・もしも、などの「超展開」が繰り広げられるのかと思ってしまったのだもの。
その勘違い自体が妄想の域を超えた超展開だと何故気付かないわたし。

上巻読み終わっての感想を一言で言うなら、「新選組なら司馬遼太郎に止めを刺されているわたしでも大喜び」でしょうか。近藤は駄目な人ながら嫌味ではなく、沖田の純真さはそのまま可憐であり、山南さん脱走の理由が切なくて大変よい。
それにもまして、勝海舟がおいしいところを一人でさらっていっていますよ。
ずーっと登場、ずーっとおいしい勝海舟を見ていると、そういえば昔むかしは坂本龍馬より勝海舟が好きだったことを思い出します。貧乏御家人の育ちで、江戸っ子で、77歳まで生きて病死したところがわたしの好みでありました。そんな理想に限りなく近い北型版勝海舟が素敵すぎ。
勘定奉行の小栗さまも素敵だ。大人げがなくて頑固で偏屈で。勝に対する態度が面白くて、「じーさん大人気ない」と思っていましたが、今調べたら勝1823年、小栗1827年で、小栗のほうが年下でした。うはあ、なんて思い込みをしていたのか。
土方さん主人公らしいですが、峻烈で冷徹で熱血な、思う通りに格好良い男前でしたので大変満足です。ちらちらと見える可愛げがまたいいのです。
そして島田魁に見る、人物造形の輪郭の切り出し方のあざやかな手際にしびれました。たったあれだけの描写と登場で、島田がどんな人間として存在しているのか非常によくわかり、想像の中ではっきりくっきりとした輪郭を持って浮かび上がってきます。島田魁自体には思い入れは余りないのですが、これは見事にキャラクターが立っている。ここでキャラ立ちという安直にして軽薄な表現しかできない語彙の貧しさが悔やまれます。
登場人物の多くが、日本国内の騒乱というだけでない時代の捉え方をしており、新選組にもワールドワイドな視点を持つ人間がいたという解釈が新選です。純粋に剣だけに生きるのがほとんど沖田だけで、みな少なからず時代の動きと政争と諸外国について思いを巡らしているというのは今まで見たことのない造形です。大抵、世界を視野に入れているのは維新志士側という印象が強いので。
坂本が「ぼく」と言い出したのには、びっくりのあまり椅子から転げ落ちるかと思いました。

また購入日記

2005年10月20日 未分類
『黒龍の柩』北方謙三、幻冬舎文庫。上下巻。

帯に「土方歳三、龍馬の計画に己の夢を賭ける」って書いてるのがおっかなくて、
「家主ー、北方版新選組が文庫で出てたよー。帯がねー」
「中身はどんなだった?」
「どっからどう見ても北方でしたね。作者名伏せてもわかるね」
「あー」
という笑い話の種にしたのですが、家主が即座に反応、
「特別予算を組んであげるから買っといで」
ということで購入。
家主はもしかして北方を笑いの種として好きなんだろうか。

漫画買い

2005年10月20日 未分類
『HOLiC』7巻を買ってきました。帯の紙が油を吸いやすいらしく、またしても指紋をつけてしまいました。いやん。
紙に書かれた文字と虫というと、『蟲師』のお嬢様を思い出します。箸でつまんで紙にぺたんぺたんと。
加藤尚武、講談社学術文庫。

うーん、講談社学術文庫はいい仕事をしているなあ。最近つくづくそう思います。
「現代の倫理学で議論される原理的な問題と応用倫理学で取り扱われる内容を、明確に描き出したい」(あとがきより)
倫理的であれ、道徳的であれ、正しくあれと言うけれど、ではその「倫理」「道徳」「正義」の基準は一体なんであるのか。何処にあるのか。どう決まるのか。
「この本は、臓器移植や環境問題、ナチスとアンネ・フランクというような現代の道徳的なジレンマ・難問を中心にして組み立てられている。われわれの生活文化の中に、同じようなジレンマ・難問が発生する可能性がいつもある。倫理学は、問題が発生した時の用心に解決の型を用意しておかなくてはならない」(まえがきより)
倫理という言葉は知っているけれど、倫理学って一体なあに?という人にも、まえがきのこの言葉ですぐに理解されると思います。ところどころ専門用語や学術的な記述があって、「読み物」としてはちょっと難易度が高すぎるのではないかしらという気もしますが、わかるところだけわかるように読んでも面白い話題がたくさん取り上げられます。

第1章 人を助けるために嘘をつくことは許されるか
第2章 十人の命を救うために一人の人を殺すことは許されるか
第3章 十人のエイズ患者に対して特効薬が一人分しかない時、誰に渡すか
第4章 エゴイズムに基づく行為はすべて道徳に反するか
第5章 どうすれば幸福の計算ができるか
第6章 判断能力の判断は誰がするのか
第7章 <……である>から<……べきである>を導き出すことはできないか
第8章 正義の原理は純粋な形式で決まるのか、共同の利益で決まるのか
第9章 思いやりだけで道徳の原則ができるのか
第10章 正直者が損をすることはどうしたら防げるか
第11章 他人に迷惑をかけなければ何をしてもよいか
第12章 貧しい人を助けるのは豊かな人の義務であるか
第13章 現在の人間には未来の人間に対する義務があるか
第14章 正義は時代によって変わるか
第15章 科学の発達に限界を定めることができるか

「囚人のジレンマ」という有名なゲームについて説明されているくだりを立ち読みで読んでみるのもいいかもしれません。全体にずばりと爽快な語り口で、座右の銘にしたいような名言が目白押し。
「現代で特に功利主義批判が重大な課題になってきているのは、実はベンサムやミルの時代にはまだ発生していなかった功利主義と自由経済と民主主義の組み合わせシステムができあがってしまったからである(中略)。歴史的に言えば、世俗化、市場化、民主化はばらばらに起こった出来事で」ある、という指摘にあっと意表を突かれました。そういえばそうだ、現代という時代とシステムに生きているわたしには、この三つの組み合わせは自明であり、最初からそうであったような錯覚を抱いていますが、近代化などというものはまさしく「近代」のものでしかないのですよね。成る程なあと思うと同時に、時代背景によって「正しい」ということが左右される可能性にも思い至り、倫理や道徳などの絶対的なイメージのあるものの、実は相対的なものでしかないのかしら、と「波の来ない砂漠で、砂上の楼閣の上に暮らしている現代人」の現状に、そこはかとない不安を感じもします。後のほうの章でその「相対主義」も否定されてしまうわけですが。
第7章の「〜である」と「〜べきである」の関係は、この間読んだ『子どもための哲学』の中で論じられている「悪いことはしてはいけない」という疑問とほぼ同じです。続けて読むと理解度が上がって興味深い。
功利主義の問題点を語るとき、しきりとカントが引用されるのですが、カントのこういった解釈をはじめてみたのでびっくり斬新です。カントといえば「ア・プリオリ」と「理性」のイメージしかない貧弱な知識がいかんのですけどね……。
わかるところだけを読みたいように読んで、わかるところだけ好き勝手に楽しむ読み方ができる入門書。もっと知りたいと思わせてくれたポイントだけ、引用と紹介に従ってさらに専門書を読むというやり方もできます。
H・P・ラヴクラフト、大瀧啓祐訳。

「宇宙からの色」
「眠りの壁の彼方」
「故アーサー・ジャーミンとその家系に関する事実」
「冷気」
「彼方より」
「ピックマンのモデル」
「狂気の山脈にて」
資料として「怪奇小説の執筆について」を収録。
最初にまず言いたい。

なにこの直訳。

直訳調を通り越してます。読みにくいったらありません。3巻はそれほど気にならなかったのですが、こちらはときどき「原文を見せろ!」と叫びたくなるようなおよそ硬直しきった文体に、原文では本当にどうなっていたのかと確かめたくなるような単語がちらほらと意味不明に文中で浮いています。おかげでいたくモチベーションが低下して、読み終えるのに時間がかかってしましいました。
それなのに、7巻までこの人が訳なのですね……。うわあどうしよう。やる気が逃げていく。
前巻の感想で、ラヴクラフトは怖くないよーと言ったわたしですが、訂正したいと思います。「宇宙からの色」がごっつい怖い。井戸の中にいるものよりも、井戸の中に呼び込まれた家族の狂気と変容が怖い。家の敷地内にある井戸に、深夜水を汲みに行ってそのまま帰ってこなくなる。それも息子が二人、一度にではなく二度に渡って。周囲の景色も地獄のようなありさまで、誰一人近寄ることのない家の中で、一家がじわじわと狂気と身体的な変容にさらされている状況を想像すると、怖気をふるいます。ううおっかない。
個人的に気に入ったのは「冷気」と「ピックマンのモデル」です。前者は短い尺の中での「冷気」に対するこだわりようと、オチが素敵。後者は語り手が「きみ、きみ」と、しきりに聞き手の「エリオット」に語りかける台詞のみで構成されていて、聞き手のエリオットの台詞は一切なし。これはもしや二人称?二人称の小説なんてめったにお目にかからないので、明確な分類は知らないのですが。しきりと名前を挙げられる「コットン・マザー」が何者かわからず非常に気になります。案内なしでは二度とたどりつくことのできない、暗い幻想のような街並みのイメージが「エーリッヒ・ツァン」のオーゼイユを思い出させてとても好みです。この「一度は行けたのに二度と発見できない」場所や街というモチーフがとても好き。
白眉らしき「狂気の山脈にて」は、

「テケリ・リ! テケリ・リ!」

に大爆笑してしまって、なにもかもが台無しでした。
てけりーり〜♪てけり〜り♪
さあ貴方もご一緒に恐怖のショゴスベッドにダイビング!などの、ろくでもないネタが頭の中をぐるぐると。多方面に展開する、多方面でイメージが形成される作品については、最初に出会ったものが作品に対する全体的な心象を決定してしまう、ということを改めて思い知りました。
よかった、ダンウィッチは多分最初にまともな本で読んでいるはず。
古橋秀之、電撃文庫。「”フツー”の男の子と”フシギ”な女の子のボーイ・ミーツ・ガール」

「ある日、爆弾がおちてきて」
「おおきくなあれ」
「恋する死者の夜」
「トトカミじゃ」
「出席番号0番」
「三時間目のまどか」
「むかし、爆弾がおちてきて」
『電撃hp』に連載された6本に書き下ろし1本を加えての文庫化。
どれが書き下ろしなのか雑誌をチェックしていないわたしにはわからないわけで。どこかに初出一覧がないかと探しても、この文庫を見る限りではどこにもないわけで。どーれなーのよーう。
いわゆる「黒古橋」の本しか読んだことがないために、このライトな内容とライトな文章に驚天動地。え、なに、すごく普通だどうしたの?と驚きのあまり著者名を確かめた人少なくともここに一人います。
でも、時々なんだか微妙な感じのネタというか、ぎりぎりなネタのほのめかしがちらほらとあります。爆弾の名前がピカリ……。しかもヒロインの名前が広崎で主人公が長島。これは一種露骨なほのめかしではありませんか。
「恋する死者の夜」は開始三行目で「地獄はここだー!」と叫んでしまうような開幕、そして直後に恐怖のヒロイン登場。

「 ま も る く ん あ さ だ よ う 」

さっき叫んだばかりなのに、再びぎゃーと恐怖に叫びました。超怖い。なんなんのこの地獄っぷり。あれ、そういえば、この凄惨で美しい地獄の雰囲気はどこかでお目にかかったことがあります。なんだろう。出てこないということは、ちゃんと読んだことがない本かしら。恋するゾンビ少女……皆殺し……とりあえずgoogleさまにおすがり。「恋 ゾンビ 少女」で検索。ああ、なるほど!
単純にライトなだけとは言い切れないのは、どす黒い気配を外から見えないようにきちんと丁寧に包んでいる感があるからでしょうか。
いつもの通り個人的ポイントの高かったエピソードその他をだらっと書いておきます。
「おおきくなあれ」の主人公、本当に普通なのか。この機転の具合というか口の達者なところは、日常ラブコメ系のエロゲー主人公を彷彿とさせます。ヒロイン高峰185センチ、主人公小暮158センチという関係が絶妙だ。「ぴんぴろがくるぞー」。
「出席番号0番」月本が非常に好みです。対比される日渡も可愛い。登場人物名が日渡・月本・火浦・水里・木崎・金子・土屋と、さりげなく細かい。
「三時間目のまどか」電話でアンハッピーエンドなら乙一。古文教師の声が特定の人物の音声で脳内再生されて笑い転げました。
「むかし、爆弾がおちてきて」時間の固形化という発想がどこから出てくるのか想像できません。
「あとがき」「あんたらよく育つなあ!」という一言がツボりました。
面白かった。
古橋秀之の『ある日、爆弾がおちてきて』げっとー。
新刊が出るぞというのは知っていたのですが、一体何処から出るのか知らず、『キノ』の挟み込みチラシを見て慌ててネット通販で確保しました。
ライトノベルって実に楽しげで、読んでみたいものが沢山あるのですが、刊行ペース速いわ量が多いわで、とても買い集めることができません。貧しい財布を嘆く。
永井均、講談社現代新書。

<子ども>と自分で哲学をする人のための入門書。表紙に、
「悪いことをしてはなぜいけないのか。
 ぼくはなぜ存在するのか。
 この超難問を考える。」
と書いてある通りの内容。子どものころ不思議だった、大人が当たり前のことだとしか教えてくれなかったあの不思議、秘密に迫ろうとする感性が哲学の基であり、「ほんとうは哲学は子どもの素朴な疑問から発したものなのだ」と日本語の「哲学」という単語にまつわりつく、難解であるとか高級であるとかの暗くてじめじめしたイメージを振り払い、自分で哲学するということへ誘う一冊。
「ぼくは何故存在するのか?」という疑問は、自己と他者との明らかな隔絶を感じる人には非常に馴染むと思います。他人と他人の違い方と、ぼくと他人の違い方は、同じ「違い」でも異次元のようにかけはなれている。<ぼく>を他人の体の中に入れても、それは「他人の体の中に入った<ぼく>」であり、更に記憶を書き換えても、それは「記憶を書き換えられて他人の体の中に入った<ぼく>」であり、どこまで行っても<ぼく>は<ぼく>であるという議論が展開されています。わたしが理解するに、「ぼくのコピーロボットを作ってもそれはぼくじゃない。でもその中に<ぼく>を移せば、たとえ機械の体でもそれは<ぼく>だ」という状況で、「ではその中身、肝心要の<ぼく>って一体何なの?」と問うことなのでしょう。
でも、この論旨で行くと、他人たとえば君の中身を他人に移し変えても、それは唯一無二なる君だという状況が成立してしまう。これでは<ぼく>こそが他者とは違う唯一無二、比較のしようがないものとして問題を立てたのに、みんなに適用可能な「みんな」の問題、状況になってしまう。<ぼく>だけの話をしていたのに、どうしてみんなの話になってしまうのか?これは困った、さてどうしよう。
と、いう具合にこの存在する唯一無二の自分とは何か、をじりじり追求していく「なぜぼくは存在するのか」が前半、一つ目の問い。
二つ目は、悪いこと、としてはいけない、あるいは善いこと、としなければいけないの間には、なんの必然もないのに、どうして大人は「悪いことをしてはいけない」と言うのか?という問い。
悪いことは、たとえば他人に迷惑をかけるから/他人を不快にするから、できればしないほうがいい、できるだけしないほうがいい、その方が社会として上手く行くのだから、理想として、スローガンとして掲げるなら「してはいけない」になるのだよ、という自分解釈でわたしはとりあえず「上げ底」を埋めておきましたが、どうせなら徹底的にやってみるのが哲学でしょう。
と、いうわけで、「よいこと/わるいこと」には「善悪」「好嫌」の二つの軸があるという発見を手がかりに、道徳がわたしたちに要求する「悪いことはしてはいけない」の仕組みを解体しようという試み。
二つの問いはともに「結論はまだ出ていない」としめくくられます。それはつまり「このような問題や考え方がある、この問題を自分のやり方で考えてみないか?」という「お誘い」がこの本の目的なので、まったく当然の結果でもあります。
が、二つ目の問いが「二つの世界解釈がある」辺りで投げられてしまっているのが、いくらなんでも中途半端な感じです。一つ目はどうしてもここまでしか今は進めないんだ、と納得するところまで詰めてくれているので、余計に勿体無い。一つ目では「ああまだ未解決なんだ」という満足を得られましたが、二つ目は消化不良で苦しみそうです。
この本のもう一つのテーマは、おそらく粉飾された哲学のイメージに対する反抗なのではないかしら。哲学といったときに思い浮かぶ日本語のイメージは、「難解で高級で、陰湿で根暗でそして人生に対する教訓が得られる」で当たらずとも遠からずだと思われます。それは違う、哲学というものは<子ども>の発する、あのなんの利得もないのに知らずにはいられない疑問、そしてそれを解こうと、自分の力で考えることなのだと著者は繰り返します。この<子ども>の疑問は、大人になる頃には忘れ去れて「上げ底」されて埋められてしまいます。この「上げ底」が気になってどうしても忘れることができず、みんなが当たり前のように上げ底の上で暮らしているのに、自分を納得させる理屈を見つけて自力で上げ底を埋めないとみんなと同じラインに立てない、そういう不器用な<子ども>が哲学者に向いているのだという話を聞いて、深く納得しました。上げ底の上で生活する大人は、その上げ底を直視しないことで確固たる存在にしていますが、<子ども>は直視するが故にその上にあがることができない。こんな<子ども>には哲学が大きな助けになるのではないかしら。哲学をせざるを得ない大人は、中身が<子ども>で実社会を生きていくのがとても大変そう。
ところでわたし、竹田青嗣の本は一冊も読んだことがない上に、本文中で問題となった発言のほとんどがさっぱり理解できなかったのですが、<子ども>のための哲学をするよ、粉飾を剥ぎ取った、素手での哲学を始めるよ、という連載に対して「そういう現代思想の動向を踏まえて言うと」なんて発言するひとはとっても信用なりません。著作を読む前から、この人はもしかしてアレなんじゃないかしらと疑心を持ってしまいました。今後読む機会があれば、ぜひ自分の目で確かめてみたいです。
みんなが当たり前のように適応していることが、どうしても飲み込めない、ようやく理屈をつけて飲み込んで、みんなと同じところに行ってみたら、みんなそんな理屈、当然のように知っていて、それを踏まえて上にいた。こういう状況に頻繁に遭遇して、どうしようと途方に暮れる不器用っ子は読むと勇気付けられるんじゃないかと思います。

『キノの旅9』

2005年10月12日 未分類
時雨沢恵一、電撃文庫。

数字はローマ数字なのですが、機種依存文字なので便宜的にアラビア数字で表記。さて今回のあとがきは、

ぶへえ。

毎回予想を斜め上45度でキリモミ回転していくような発想が素晴らしいです。うっかり飲んでいたお茶を吹き出すところでした。でも帯っていつもついてるとは限らないのでは?なんて野暮なことは言いっこなしですよ!著者近影の「背伸びする筆者」もとてもおかしい。
カラーページの凝りようといい、イラストの置き所といい、版面にこだわったデザインといい、トータルでものすごく気を使ってあるのがよくわかります。隅々まで神経の行き届いた、文庫というのが信じられないクオリティ。「作家の旅」のラスト、決めの台詞と改頁のタイミング、鳩のイラストの三者が内容にがっちりリンクしていて、絶妙の効果です。思わずまたお茶を吹きそうになりました。「続・戦車の話」も、ものすごいタイミングでイラストが挟んであって、もうたまりません。
黒星紅白の描く、線の太い白黒の絵がかなり好き。文章と絵のあった、いい組み合わせだなあ。他に気に入ったエピソードは、「いい人達の夕べ」。伏字の取り扱い方がほんとに上手い。字数に関わらず「×××××」に統一のお約束が最高。内容が想像できるようで見当もつかないこの罵詈雑言、「×××××」が目に入った瞬間からきたよきたよとわくわくします。
「続・戦車の話」ヒトガタ無機物どころか、戦車に萌え萌えする日がこようとは思わなんだ。……そういえば大抵の軍備には萌えることができるじゃないわたし。しまったー。「説得力2」格好いい。

ときどき「別に言うほど深いわけでもすごいわけでもない、むしろ薄っぺらい」という感想を耳にします。その時に思ったことなどつらっと。
ちょっと皮肉で残酷で、美しい世界を、ちょっと変わった世界観で書いてるだけで、それほど設定が深いとか、人生の真理に迫るとか、人間の葛藤の深遠を垣間見せるとかいうことはない、という感想には同意します。が、わたしが面白いと思うポイントはそこではなくて、皮肉も残酷もありがちな程度はあるけれど、それを感傷と自己陶酔にひたらずに淡々と書いている作品というのが珍しいのではないかと思うのです。こういった物語が、自己陶酔の極致のようなべたべたした文章で書かれているのに辟易した記憶があるかたは同意してくださるのではないかしらん。何があっても主人公は傍観者、巻き込まれても自分の安全を最優先して通り抜けていく、そんな物語を他には寡聞にして知らないのです。
この突き放し具合を気に入って読んでいる人もいるのではないかしらーと「言うほど内容は大したことない」という感想を聞くたびに思うわけです。
次の後書きがどうなるのか、今から楽しみでなりません。
ライアーソフト、相島巻、角川スニーカー。

原作はライアーソフトの土下座調教西部劇『エンジェルバレット』(18禁)。いわゆるノベライズ。

ものすごく面白くない。

元ネタが激しく面白いからこれでも一応面白くはあるのだけれど、ゲームを知ってる人間が満足できる独自の面白さはほぼゼロ。買ってよかったと思えたのは、調教新ネタ部分くらいかしら。
「75度」「銃を抜きますか」などこれぞという台詞はピンポイントで採用されていましたけど、「一人で買い物に行くのはいやだったんだ」がないので減点。「彼にとってはもはや怒りそのもの」もないので更に減点。
減点以前に魔城突入→ゲオルグ打倒で小説が終わっちゃっているので、後者は採用のしようがないんですけどね……。わかっちゃいるけどやさぐれる。
長さの都合上出番を削られた登場人物が、下手をすると両手で足りないのはまだしも、こんな中途半端なところで終わらせて何をする気だったのか。
忘れていたのですが帯の「神父」は間違いですね。牧師なんだよ!牧師じゃなければいけない理由がちゃんとあるんだよ!ひどいです角川。こうなると登場人物紹介の「メイザー=神父」もわざとなのかうっかりなのか疑わしくなってきます。絶対間違えたんだろう。今見たらクラウスも「神父」って表記されてるし。ああもうどうしてくれよう。
いい加減、ノベライズ買っては腹を立てるという繰り返しをやめたい……。
山内志朗、平凡社新書。

卒論戦友その2。本の整理中に発掘。ついでに、懐かしくなったので卒論関係の本を積み上げて、端から読んでいます。
大学で日々生徒の論文と格闘している現役教授の書いた、論文マニュアル。笑いの研究をしている学者として、トリビアに二回ほど出演していたので、知っている方は知っていらっしゃるのではないでしょうか。滑舌が微妙に悪くて、頻繁に「ハビトゥス」と言う、頭髪の具合がちょっとフランシスコ・ザビ(恩師に対してあまりに暴言に過ぎるので略)みたいなあの人です。
参考文献の挙げ方や記号の使い方、紙に出力する際の注意、採点者の視点から見たいい論文など、非常に実践的で実用的な内容です。
何が一番いいかというと、そもそも「論文」というものはなんぞや?というところをちゃんと解説している点。論文には論文という形式があり、それを外したらどれほど素晴らしい内容でもアウトですよ、という基本が何度も繰り返されます。高校までの勉強で「論文とは何か?」なんて習ったことがないのに、大学生になった途端「単位が欲しけりゃ論文を書くのだなけけけ」という環境になって戸惑ってしまう人は少なからずいると思われます。実際わたしは卒論書いてる最中に「論じる、という言葉の意味が解りません」とのたまって担当教官に嘆息されました。だって国語辞典に載っている「論じる」と、論文の内容として適当な「論じる」は違うと言うことを知らなかったのですもの。
そしていよいよ締め切りが近づいてきてどうもこうもしようがなくなる寸前に買いました。
で。
人生に近道無しという言葉の意味を思い知りました。正当な手段では間に合わない→求む近道→一番近いのが正当な道程と知ったときのあの衝撃。目的地に一番正しくかつ早く到達する手段が王道であり、そしてその王道には近道がないのです……。
王道では遠すぎる!と手っ取り早い近道を求めてこの本を買ったわたしはまだまだ甘かったようです。
このように、少なくとも夢を見ている若者には真理を知らしめる力がこの本にはあります。そして思い知った後に読むと、無駄のないシンプルな解説と構成、そして語られている内容の含蓄深さがとても楽しい。
そして何度読んでも「角ブラケット[]」の正しい使用方法がわからなくて悔しいです。そもそも普段角ブラケットが出てくるような本なんて読んでないですから。……がくり。
池波正太郎、文春文庫。新装版。新装版のほうが50円高い。

読んだことがあるようなないような、ないようなあるような。読んだことがあるとしたら、中学生の時に買った文庫が何処かにあるはず。『幕末遊撃隊』は間違いなく持っていると断言できるのに、記憶の衰えって怖い。
主人公は永倉新八。明治維新後まで生き残った数少ない新選組隊士。

出版社/著者からの内容紹介
「剣道の快感に没入した青春の血をそのまま新選組に投じた永倉新八の一生。女には弱いが、剣をとっては近藤勇以上と噂された彼の壮快な人生をさわやかに描いた長篇」

以下まっとうとは程遠い感想。
永倉が主人公なのに土方にばっかり目が行きます。近藤勇がなりあがりになってしまった後半の描写は毒があっていい。斎藤一が個人的イメージと違うのでわけのわからないことに。「島田甲斐」という名前が一度だけ出てくるんですが、これは島田魁とは違う人なのでしょうか。
さまざまな創作物(小説映画漫画など)から多種多様なイメージを仕入れてきているので、主にビジュアル面での統一が致命的にとれず、脳内がものすごいことになりました。だって時々美少女混ざっちゃうんですよ美少女。しかも例の羽織の下が制服(ブレザーとかセーラーとか)というものすごい絵面。もうあの頃には戻れない。
永倉新八の一生を通して、幕末〜明治維新〜維新後の歴史の流れをみることができる、すぐれた歴史小説でもあります。維新が粛清をともなう革命であり、血なまぐさい勢力争いであったことを知らない/忘れている学生さんにそっと「勉強の楽しさがここに……ふふふ」と言いながら手渡したい一冊。『関ヶ原』を読んだ際に「この恨み晴らさでおくべきかを400年持ち越した薩長」という話をしましたけど、この本でもその点に触れられていて面白かったです。

やっぱり読んだことがあるような気がする。
コンビニに行ったら『BLEACH』の19巻があったので買ってきました。公式発売日は4日ですって。

砕蜂が可愛いらしすぎてときめきゲージが振り切れました。
宮下あきら、ジャンプコミックスデラックス(要するに集英社)。

これは……一体どう書いたら野暮なネタバレを避けられるのかしら……。
とりあえず、ファンが長いこと待ち望んだ垂涎の一冊であり、その気持ちに報いて余りある内容であることは間違いありません。純真だったあの頃のわたしも、一体何処の本屋に行けば民明書房の本が手に入るのかと、その入手難度の高さに溜息をついたものです。ふふふ。
しかし冗談抜きで宮下あきらの博識ぶりには舌を巻きました。中国だけじゃなくてギリシャエジプトもばっちり守備範囲内。日本は言うまでもなく。
ところで本書内に「硫酸池に浮かべた不溶性の紙片の上を驚異的速さで駆け抜ける」という技が紹介されているのですが、子供の頃「水の上を右足が沈むより先に左足を出し、左足が沈むまでに右足を出せば、水の上を走ることができる」というのを本気で信じていたことを思い出して懐かしくなりました。修行すればできるんですよね、きっとこれ。忍びの技でも見かけることだし(かなり本気)。硫酸池と紙片は無理だとしても、まあそこら辺は伝説ゆえの誇大表現ということで。
いくつか説明を見ても一体どんな技なのか見当もつかないものが幾つかありました。こうなったら『魁!!男塾』を全巻集めるしか。塾長と鬼ヒゲを見ていると、何故かハートマン軍曹を思い出して胸がときめきます。気合で宇宙空間から帰還。
民明書房以外の太公望書林やミュンヒハウゼン出版の本の紹介もあります。対談もあるし民明書房社歌もあるし、眺めているだけで面白い巻末の書籍名索引など、実に充実した内容です。
H・P・ラヴクラフト、大瀧啓裕訳、創元推理文庫。

「ダゴン」
「家の中の絵」
「無名都市」
「潜み棲む恐怖」
「アウトサイダー」
「戸口にあらわれたもの」
「闇をさまようもの」
「時間からの影」
全8編と書簡の一部を「履歴書」として収録。
ぐっときたのが「家の中の絵」「無名都市」「アウトサイダー」。大嵐と雷に追われて入った、古びてねじけた家の中には、食人の絵を眺めて暮らす老人、そして天井からしたたり落ちてくる赤い液体……。古びた家の、湿って歪み何か悪夢のような出来事を隠しているような気配と、メインとなる本の描写が素晴らしかった。夢に見るような金箔押しに皮の装丁。おぞましい食人の絵のある頁には捲り癖がついて、開いて置けば必ずその絵があらわれる。そしてなんか赤い液体が落ちてきたギャー!と世にもおぞましく美しい本の話なのです。
「無名都市」も同じく美しい。アラビアの砂漠の彼方に、崩れはて、うち黙して横たわる廃墟の都市。乾いた砂と風と石と月と。「うち黙す」「都邑」「かぐろき」など古めかしい言葉で語られるかつて栄えた呪われし都と、その最奥にあったもの。幻想の極致、耽美の憧れであります。で、その2本を蹴り倒してなお惜しみないのが「アウトサイダー」。深い森の奥、己のほか誰一人といない寂れ果てたの城の中で光もなく書物の知識だけで外界を知る「余」が、森を越えて外界へと至ることを諦めたのち、高くそびえたつ塔に上ることに。塔は崩れかけ満足に窓もないが、「余」は憧れに駆られてひたすら塔をのぼっていく。そしてついに塔を上りきり、何処かの教会の床にある蓋を押し開けて外界へ。何から何まで美しい。ロマンだ、ここには浪漫があるよ。
「戸口にあらわれたもの」は、昔に子供向けにわかりやすく書き改められたものを読んだことがあったので懐かしかった。意外と読んだことがある作品があって驚きです。

この巻は訳が微妙に直訳調ですね。元の文が大仰で古風な言い回しであることを差し引いてもやっぱりなんだか直訳調。いえ大好きですが直訳。
資料によると、ラヴクラフトはきわめて古風な十八世紀の文化と文体を好んでいたそうで、なるほどこの古典的な空気漂う美文はそこで培ったのね!と大いに納得しました。
「大いなる種族」の外見を想像すればするほど、ホラーからかけ離れたおかしさというか可愛らしさを感じてしまいます。っていうか誰なのよホラー分類したのは。ラヴクラフトの作品中では、一般にホラーと呼ばれる恐怖とは違った方向性の恐怖が追及されているように思えます。人類の及ばぬ存在に対する畏怖がほとんどで、直接危害の及ぶような怖さについてはあんまり言及されてないのではないでしょうか。どっちかというと、人知を超えた存在に遭遇した、想像力豊かな人が類推と妄想で怯え死んでいる感じ。
にゃる様は案外簡単に呼び出されるんだなーとか、愛称が「ラヴィ」から「教授」に昇格できてよかったね、とか細々しい感想は省略。
常々、わたしは角川スニーカーをそのチャレンジャーぶりから「剛の者よのう」と思っていたわけですが、「業の者」と呼ぶのが正しいように思えてきました。「の」を取ったら「業者」だし。

『エンジェルバレット』10月1日発売予定。

変態神父と2丁拳銃少女が世界を救う
[ 著編者 ]
相島巻 イ:吉田 音
[ 内容 ]
世界が赤い月に包まれる時、2丁拳銃を操るの少女セーラが現われた。彼女のサポートをするのはクラウスなる神父。ところがこの神父、彼女に踏まれないと魔力が発揮できない真性のM。果たして世界の行く末は!?

これはまあ妥当なレベルとして、一緒に公開されていた帯の煽り文句。

「神父は踏まれて強くなる!
 マゾ神父と2丁拳銃少女の大アクション!!」

誰の仕業だこれ。
買う絶対買う超買う。
高村薫、『新リア王』上下巻、予約受付開始ー!!

今年書き直して単行本で出すというのは本当だったのですね!やった!わー!

予約しようかと発売日を見たら、丁度出かけている頃……。いつも使っている7yは、到着後10日以内に取りに行かないといけないのでちょっと躊躇します。
石田衣良、文春文庫。王様でずっぱり。

「東口ラーメンライン」
「ワルツ・フォー・ベビー」
「黒いフードの夜」
「電子の星」

短編3本と中編1本収録。
帯の内容紹介を引用すると、
「・拒食症の少女と嫌がらせを受ける元Gボーイズのラーメン屋
 ・通り魔に一人息子を殺されたジャズタクシー運転手の決断
 ・違法デリヘルで売春をさせられる十四歳のビルマ人少年の闇
 ・人体切断DVDと親友の行方を追う「負け犬」ネットおたく」

内容は、というと、帯の紹介文そのまま、なんの捻りもありません。面白くなくはないけどマンネリですね。シリーズが長くなるとあらわれる、ちょっと眉をしかめたくなるような傾向が随所にあります。
たとえば、事件の展開が最初の三分の一で読めてしまうところ。ラーメン店の競争の激しさをあらわすのに、
「スープでスープを洗う激烈な戦闘が日々繰り広げられ、無数の豚と鶏の遺骨が店の奥に積み上げられている」
など、なんの驚きもない展開をそれでも読ませる細部はさすがなのですが、「東口ラーメンライン」はラーメン屋の競争と拒食症の間に、なんの有機的なつながりも見出せません。そのせいで物語の構造がゆるいというか、それこそツインタワーのようにバランス悪く要素が突出してる印象。おなかがすくのは正しく食べ物が美味しそうに書かれているからなのですけど、あっちとこっちで関係ないよ、というスタイルはどうなのかなあ。
以前に出てきたキャラクターを、ちょいちょい登場させるのも長いシリーズには多い手法ですが、必要もないのに顔出しのために場面を設けるのは「はじめて手に取った人」に不親切なのではないかしら。もっとさりげなく、シリーズ読んでいる人はにやりとできる、読んでいない人にはなんてことのない場面として流せないものかしら。1行で終わりそうな描写を、だらだらとキャラクターへの陶酔で引き伸ばされている感じがして好きではないのです。これを注意深く取り扱わない作者からは、自己満足のにおいがします。
最近、とある小説家が「知らない人は知らないけれど、そのジャンルが好きな人なら知らないものはいない有名人」の名前を挙げる際に「知ってるかな?」とのたまったのにたいそう幻滅。石田衣良が「誰も知らないものを〜」とのたまったのにも同じ印象を受けました。一度気になると、斜面を転がり落ちる雪玉のようにふくれあがるこの疑心。
王様は事件を解決するのに便利らしく、非常に登場率が高いですね。そしてそこもつい穿った目で見てしまうわたしは、一度石田衣良を休んだほうがいいのかもしれません。不満と疑心に満ちた感想が続いていいことなんて、ひとつもなさそうです。

聞くところによると、オーディオの凝ったケーブルは、メートルあたり60万円くらいするものもあるそうです。うわーい霊感商法。

その他

2005年9月23日 未分類
『フルーツバスケット』新刊買いました。18巻?18巻です。

由希の物語本筋からの追いやられぶりの激しさが……もはや笑えます。紅野さんはえらそうな顔してる場合じゃないと思うよこのロリコン。元がつくかもしれないけどロリコンでしょうとも。

素子さん超すてきー。
谷徹、講談社現代新書。

タイトルどおりの「現象学」入門書。卒論中の唯一にして最大の戦友(とも)。この本がなかったら、わたしは無事に卒論を仕上げることができたかどうか。
「ちょっと休憩」と称して設けられている「コーヒーブレイク」の項が、休憩どころではない難易度のとき、思わずタイトルに偽りあり!って突っ込みたくなります。突然「たとえば、ドゥルーズ的な「リゾーム」の概念かもしれない」って言われてもさっぱりわかりません。理解以前の問題として、ドゥルーズなんて読んだことないです(さすがに本文中ではこういった事態は注意深く避けられています)。

フッサールの「現象学」を素人にもわかるように非常に平易に簡潔に解説した入門書。他の人の評価も気になってネットで調べてみたところ、ものすごく評判が良かった。さもありなん。
フッサールはなぜ現象学という学問をはじめたのか?何を目指したのか?現象学とはフッサールにとってどういうものであったか、と現象学の「内容」よりも「ありよう」から先に入ります。これによって現象学が「手段」であり、問い詰める先がなに/何処であるのか明確になって、より内容がつかみやすくなっています。

序章  あなたと私が現象学だ
第一章 現象学の誕生
第二章 現象学の学問論
第三章 直接経験とは何か
第四章 世界の発生と現象学
第五章 時間と空間の原構造
第六章 他者の現象学
第七章 現象学的形而上学と事実学的諸問題

このわけのわからない単語の羅列が、読み進めるにつれて厳密に意味を定められた「説明」であることが読み取れるようになって、理解するということ、がどのようなことか実に強く体感することができます。ちょっと逸れますが、学術書に類する本を読むときに楽しいのは、なんとなく、曖昧に使っていた言葉が方法/道具として使用されるときにどれだけ精密なものとなるか、 思い知らされること。己の太刀打ちできない高所にいる人に、実践することによって無言で痛烈に罵倒されているような気分になって、何度体験しても楽しい。駄目な部分をこれでもかと踏みにじられる快感。
学問としての現象学は「あらゆる学問の基礎となる学問」として追及されます。わたしたちは、通常の生活では無意識に「三人称」で世界を見ているようなつもりでいます。ここに世界があって、空間があって、地球の日本のある県のある都市の現代に、大勢の一人として存在している。視点としてはドラマや三人称の小説を読むのに近いでしょうか。神様のように自分を含む生活や世界を外から見ることができるつもりになっている。しかし、実際のところわたしたちは「一人称」でしか世界を見ることはできず、わたしが見るものはわたしの目から見た限定的な世界でしかないということを忘れている。科学や技術が発達すればするほど、わたしたちは外から世界を眺めることができるようになって、自分の視点を忘れてしまう。この時忘れられてしまった視点、そこから見る「科学や技術によっておおい隠されてしまった世界」をもう一度発見し取り戻そうというのが現象学の試みなのです(外から世界を見る、というのは「神の視点で見る」ということそのままではないです。念のため)。
では、わたしたちはわたしたちの「外側」をどうやって見ているのか?わたしと世界はどのような関係にあるのか?(世界は私の外側なのか、わたしと世界は同じものなのか違うものなのか)。そしてわたしはわたしだけれど、今そこにいるあなたは一体なんなのか?
と、存在しているものごとの、根源的なところを問い、世界と存在についての究極の謎にたどりつく、大変に刺激的な学問なのであります。
世界、わたし、あなたがどうして存在しているのか、それらは一体全体「なに」なのか、大真面目に考えちゃう哲学ラブ。これだけ科学が発展しても出ない答えを追い求めて学問の象牙の塔に篭っちゃう哲学者って傍目にはとてもロマンチストに見えませんか?彼らは別に好きで閉じこもっているわけではなくて、学問として高次になればなるほど「足元が覆い隠されて現実から遠くなる」ために、世間一般、つまり足元から遠く離れざるを得なかっただけなのですが。哲学の本に書いてある「生きた学問になりたーい」というのは、こういうところからきた切実な思いなのですね。地に足ついた現実を求めれば求めるほど、空想の世界に近い、上のほうにふわふわ漂ってしまう悩み。なんだか可愛らしいような気がしてきました。

そしてきっと中途半端な理解と、中途半端な言語能力で書かれたこの感想のせいで現象学を誤解してまう人が出るに違いない。……この感想を読む人がいれば、という前提をすっ飛ばして確信。

ああ、懐かしい、師匠の本探してこようっと。

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