畠中恵、新潮文庫。
虚弱体質な廻船問屋の一人息子一太郎、通称若旦那と、超過保護な妖怪の手代佐助&仁吉がどたばたな日常を送りつつ連続殺人事件を解決する話。
若旦那は幼い頃から妖怪に囲まれまくって育ち、身のまわりに当たり前のように妖怪がいる日常を暮らしているツワモノ。佐助と仁吉に日々過保護の檻で牽制されながらも、自分の生き方について考えることの多い17歳。こっそり出かけた帰り道に人殺しに遭遇してしまい、なんとかその場は逃げ切ったけれども、事件はそこで終わらなかったのでした。
新人らしからぬ馴れ馴れしい文章にびっくり。読者との距離感がうまく取れていない、という作品にはいくつも出会ったけれど、「近すぎる」という作品は非常に珍しいのでは。遠すぎてもあまり問題にならないけど、近すぎると大抵どっか破綻してしまってるものだけどなあ、作品のレベルの高さを考えるとこれはすごい。
若旦那がたまたまいきあった人殺しに端を発した、連続殺人事件を解決する筋は終始一貫しているし、死にかけ若旦那の周囲の人間模様や環境その他無駄になってる細部もなし、慣れた手つきでまるっと仕上げられた餅みたいな作品。一瞬シリーズ三作目くらいのところを間違って買ってしまったのかと思いました。
多分「近い」と思ったのと「シリーズ半ば?」と思った原因は同じで、説明の省略の多さなんでしょう。鈴彦姫の登場する辺りなんかで感じたのですが、地の文での説明がほとんどない。つくもがみで鈴が本性で、と一応の説明はあるのだけれど、若旦那の対応があっさりしすぎ。何故若旦那が驚きもしないのか云々は、手代二人と合流してからあるにはある……、というかこれがどうにも「読者さまにはおなじみ」とシリーズ進んで説明の辺りを省略し始めた作品によくある「共通理解を前提にした説明の省略」にしか見えない。シリーズ初期からの読者には通じても、新規参加の読者には微妙に通じないおかしな説明を目にしたことが全くない人はいないと思います。あの微妙な省略のきいた説明を見て、「あれ?」と思ったこともあれば、人に指摘されるまで気付かず「ああ」と思ったことも多々ある身としては、正直この距離感には好感が持てません。お願いだから一作目くらいはきちんとやってよ、と思います。なじみの客しかいない舞台とか楽屋とかいう雰囲気は勘弁して欲しい。登場するだけ登場して、説明もない活躍の場所もない名前だけ妖怪はいったいなんだったのかと。
あと気になったのは心理描写の()使用と、むやみな台詞の多さ。表紙折り返しの著者紹介の「都筑道夫の小説講座に通って〜」。非常に読みやすくて明るい物語ではありますが、どうしても京極の『豆腐小僧』と比較してしまうので評価が辛めになりました。
虚弱体質な廻船問屋の一人息子一太郎、通称若旦那と、超過保護な妖怪の手代佐助&仁吉がどたばたな日常を送りつつ連続殺人事件を解決する話。
若旦那は幼い頃から妖怪に囲まれまくって育ち、身のまわりに当たり前のように妖怪がいる日常を暮らしているツワモノ。佐助と仁吉に日々過保護の檻で牽制されながらも、自分の生き方について考えることの多い17歳。こっそり出かけた帰り道に人殺しに遭遇してしまい、なんとかその場は逃げ切ったけれども、事件はそこで終わらなかったのでした。
新人らしからぬ馴れ馴れしい文章にびっくり。読者との距離感がうまく取れていない、という作品にはいくつも出会ったけれど、「近すぎる」という作品は非常に珍しいのでは。遠すぎてもあまり問題にならないけど、近すぎると大抵どっか破綻してしまってるものだけどなあ、作品のレベルの高さを考えるとこれはすごい。
若旦那がたまたまいきあった人殺しに端を発した、連続殺人事件を解決する筋は終始一貫しているし、死にかけ若旦那の周囲の人間模様や環境その他無駄になってる細部もなし、慣れた手つきでまるっと仕上げられた餅みたいな作品。一瞬シリーズ三作目くらいのところを間違って買ってしまったのかと思いました。
多分「近い」と思ったのと「シリーズ半ば?」と思った原因は同じで、説明の省略の多さなんでしょう。鈴彦姫の登場する辺りなんかで感じたのですが、地の文での説明がほとんどない。つくもがみで鈴が本性で、と一応の説明はあるのだけれど、若旦那の対応があっさりしすぎ。何故若旦那が驚きもしないのか云々は、手代二人と合流してからあるにはある……、というかこれがどうにも「読者さまにはおなじみ」とシリーズ進んで説明の辺りを省略し始めた作品によくある「共通理解を前提にした説明の省略」にしか見えない。シリーズ初期からの読者には通じても、新規参加の読者には微妙に通じないおかしな説明を目にしたことが全くない人はいないと思います。あの微妙な省略のきいた説明を見て、「あれ?」と思ったこともあれば、人に指摘されるまで気付かず「ああ」と思ったことも多々ある身としては、正直この距離感には好感が持てません。お願いだから一作目くらいはきちんとやってよ、と思います。なじみの客しかいない舞台とか楽屋とかいう雰囲気は勘弁して欲しい。登場するだけ登場して、説明もない活躍の場所もない名前だけ妖怪はいったいなんだったのかと。
あと気になったのは心理描写の()使用と、むやみな台詞の多さ。表紙折り返しの著者紹介の「都筑道夫の小説講座に通って〜」。非常に読みやすくて明るい物語ではありますが、どうしても京極の『豆腐小僧』と比較してしまうので評価が辛めになりました。
福田恒存、文春文庫。
タイトルすら正しく表記できない不遇さが、既にしてこの本の一部を語っていると言っても過言ではない。戦後の国語国字改革を批判し、現代仮名使いの問題を指摘した名著。
ものすごくひらたく言えば、言語として正しいのは旧仮名遣いであり、現代仮名遣いの非合理性は頭おかしいとしか思えないから撤回しやがれコンチクショウ、という主張を、懇切丁寧明瞭明快に記した本。
日本政府が現代仮名使いを制定しようとした当初、表音文字という原則に従って「漢字撤廃、ローマ字表記」を目指していたと知った時にはさすがに開いた口が塞がりませんでした。既に現代仮名使いに慣れ親しんで半世紀世代、生まれてからずっと現代仮名使いで暮らしてきたわたしでも、発案者の脳(暴言につき省略)を疑いました。ローマ字表記って。英語などのアルファベットを使用する言語は、表音的で覚えやすいから教育にも宜しいというのが建前だそうですが、教育に宜しいのは難易度が高い方だし、英語の何処が表音的なのかと小(略)。
「こんにちは」「こんにちわ」さていずれが正しいのか、と尋ねられたときに「本日はお日柄もよく、という類の挨拶が縮まったものだから、今日は、すなわちこんにち『は』が正しい」と答えられる人は今日本人の何割くらいなんでしょう。「いちおう」と「いちよう」の区別がつかない若いお嬢さんが発生しているのを見ると、音韻なんて語意識に左右されるものを根拠にすることがいかに危険か、そして語意識が教育に左右されるものだなんてことは一目瞭然だと思うのですが、戦後の識者にはわからなかったようです。あまつさえ「タイプライターで書けないから」と、正気の大人とはとても思えないことも抜かもとい主張していたと聞いて頭を抱えました。
本論の焦点となっているのは、現代かな使いがいかに非合理的で矛盾しているか、という点です。「危うい」なのに「危ぶむ」。「〜尽くし」なのに「〜ずくめ」。「地面」は「じめん」なのに、「鼻血」は「はなぢ」。何より、「は行は、あ行あるいはわ行に転化」という法則が格助詞に限っては適用されない。旧仮名遣いに照らしてようやくわかる言葉も多い。その矛盾を活用法や語源をあげながら、丁寧に説明しています。発音にはとんと疎いのですが、それでも文字を目で追うだけで理解できる活用の正当性素晴らしい。
これだけ法則性のないものを「合理的」と主張する思考法がもう理解できないし、それで教育が簡便になるという発想には唖然とするばかり。戦後すぐに字体の改革案を提出して、占領軍に一蹴されたとかいう事実含めて、文化そのものである言葉をないがしろにしすぎ。ワープロ導入の際に、あの気持ちの悪い略字を勝手に差し込んだ奴は戦犯扱いでオッケー。森鴎外が略字しか出ない上に、正しい表記にすると文字化けするって何事ですか。
ネット上で見かける旧字旧仮名サイトが好きになれないことが多いのは、多分「現代かな使いで作成した文章を、そのまま旧仮名に自動変換しているだけ」に見えるからなのだと思います。もはやわたしたちの語意識は、戦前のそれとは比べるべくもないほどに破壊されているのでしょう。「一先づ」は知っていても、それを「まず先に」に適用して考えることの出来なかった自分に、ほとんど絶望に近い驚きを覚えました。
あの時代に「ワープロで漢字を自在に操れるようになる時代がくる」と明言していた著者の先見の明に感服。「宣長」「契沖」が開発されたいきさつを知って感動。「冒涜のとくが略字体なのはそれこそぼうとくだー!」と嘆き悲しんでいた卒論担当の教授が、専用ソフトをしきりに学生に勧めていたことを思い出します。
「すはち、英国民の考へ方はかうだ。われらの表記法は難しい。が、それが宿命とあらば、よろしい、それなら学校教育を一年早くはじめよう」
むちゃくちゃカッコいい。
日本語をこよなく愛する人、略字体の醜さが我慢ならない人、旧字旧仮名を愛する人、自分も旧仮名遣いで書いてみたいという誘惑を感じたことがある人、送り仮名のゆらぎが気になる人、そして、
「一、作家・評論家・学者、その他の文筆家。
一、新聞人、雑誌・単行本の編集者。
一、国語の教師。
一、右三者を志す若い人たち。」
におくる、最高の国語教本。
タイトルすら正しく表記できない不遇さが、既にしてこの本の一部を語っていると言っても過言ではない。戦後の国語国字改革を批判し、現代仮名使いの問題を指摘した名著。
ものすごくひらたく言えば、言語として正しいのは旧仮名遣いであり、現代仮名遣いの非合理性は頭おかしいとしか思えないから撤回しやがれコンチクショウ、という主張を、懇切丁寧明瞭明快に記した本。
日本政府が現代仮名使いを制定しようとした当初、表音文字という原則に従って「漢字撤廃、ローマ字表記」を目指していたと知った時にはさすがに開いた口が塞がりませんでした。既に現代仮名使いに慣れ親しんで半世紀世代、生まれてからずっと現代仮名使いで暮らしてきたわたしでも、発案者の脳(暴言につき省略)を疑いました。ローマ字表記って。英語などのアルファベットを使用する言語は、表音的で覚えやすいから教育にも宜しいというのが建前だそうですが、教育に宜しいのは難易度が高い方だし、英語の何処が表音的なのかと小(略)。
「こんにちは」「こんにちわ」さていずれが正しいのか、と尋ねられたときに「本日はお日柄もよく、という類の挨拶が縮まったものだから、今日は、すなわちこんにち『は』が正しい」と答えられる人は今日本人の何割くらいなんでしょう。「いちおう」と「いちよう」の区別がつかない若いお嬢さんが発生しているのを見ると、音韻なんて語意識に左右されるものを根拠にすることがいかに危険か、そして語意識が教育に左右されるものだなんてことは一目瞭然だと思うのですが、戦後の識者にはわからなかったようです。あまつさえ「タイプライターで書けないから」と、正気の大人とはとても思えないことも抜かもとい主張していたと聞いて頭を抱えました。
本論の焦点となっているのは、現代かな使いがいかに非合理的で矛盾しているか、という点です。「危うい」なのに「危ぶむ」。「〜尽くし」なのに「〜ずくめ」。「地面」は「じめん」なのに、「鼻血」は「はなぢ」。何より、「は行は、あ行あるいはわ行に転化」という法則が格助詞に限っては適用されない。旧仮名遣いに照らしてようやくわかる言葉も多い。その矛盾を活用法や語源をあげながら、丁寧に説明しています。発音にはとんと疎いのですが、それでも文字を目で追うだけで理解できる活用の正当性素晴らしい。
これだけ法則性のないものを「合理的」と主張する思考法がもう理解できないし、それで教育が簡便になるという発想には唖然とするばかり。戦後すぐに字体の改革案を提出して、占領軍に一蹴されたとかいう事実含めて、文化そのものである言葉をないがしろにしすぎ。ワープロ導入の際に、あの気持ちの悪い略字を勝手に差し込んだ奴は戦犯扱いでオッケー。森鴎外が略字しか出ない上に、正しい表記にすると文字化けするって何事ですか。
ネット上で見かける旧字旧仮名サイトが好きになれないことが多いのは、多分「現代かな使いで作成した文章を、そのまま旧仮名に自動変換しているだけ」に見えるからなのだと思います。もはやわたしたちの語意識は、戦前のそれとは比べるべくもないほどに破壊されているのでしょう。「一先づ」は知っていても、それを「まず先に」に適用して考えることの出来なかった自分に、ほとんど絶望に近い驚きを覚えました。
あの時代に「ワープロで漢字を自在に操れるようになる時代がくる」と明言していた著者の先見の明に感服。「宣長」「契沖」が開発されたいきさつを知って感動。「冒涜のとくが略字体なのはそれこそぼうとくだー!」と嘆き悲しんでいた卒論担当の教授が、専用ソフトをしきりに学生に勧めていたことを思い出します。
「すはち、英国民の考へ方はかうだ。われらの表記法は難しい。が、それが宿命とあらば、よろしい、それなら学校教育を一年早くはじめよう」
むちゃくちゃカッコいい。
日本語をこよなく愛する人、略字体の醜さが我慢ならない人、旧字旧仮名を愛する人、自分も旧仮名遣いで書いてみたいという誘惑を感じたことがある人、送り仮名のゆらぎが気になる人、そして、
「一、作家・評論家・学者、その他の文筆家。
一、新聞人、雑誌・単行本の編集者。
一、国語の教師。
一、右三者を志す若い人たち。」
におくる、最高の国語教本。
岩井志麻子、中公文庫。
帯の煽り文句は「熱帯の地/ベトナムに咲いた/四日間の/恋」だそうです。渡辺淳一と林真理子が絶賛しています。第二回婦人公論文芸賞受賞作品だそうです。
この時点で大体想像つく人がいると思います。そしてその想像はほとんど当たってます。
読む前に確かめて欲しい岩井志麻子を読む際のおすすめ順。
『ぼっけえ、きょうてえ』>『魔羅節』>『ラック・ヴィエン』>『自由戀愛』>『チャイ・コイ』
特に『ラック・ヴィエン』は『チャイ・コイ』より先に読んではいけません。最初に『チャイ・コイ』読むのも不幸の元です。『自由戀愛』は『チャイ・コイ』への布石だと思って読んでおくと幸せになれます。
ほとんど『ラック・ヴィエン』と同じです。ただ、ホラーではないので、仕掛けとしての落ちはありません。ベトナムに行った私が愛人と出会う四日間の物語。作品の八割近くがベッドシーンで、かつ女性一人称、かつ渡辺淳一と林真理子が絶賛しそうな内容です。この時点でみじんこが想像したものと、内容のズレは二割もないと思います。ひたすらベッドシーン、回想もベッドシーン、淡々とした上品な文章で延々とベッドシーン。生々しい場面のはずなのに、露骨な性描写の不快感を全く与えないところはさすが。いつのまにこんな文章も書けるようになったのか岩井志麻子。引き出しが広いというか、守備範囲の広さに舌を巻きました。どの時代でもどの国でも書くし、上品にも下品にも、思いのままに書いてみせる幅の広さ。
濡れ場の半分くらいは、主人公の人格をあらわすためのエピソードで、実際に物語中に占める量より少なく感じました。5割くらいかなと思っていたら8割。言われて確かめてびっくりしました。
これにて「文庫岩井志麻子大会」閉会。
帯の煽り文句は「熱帯の地/ベトナムに咲いた/四日間の/恋」だそうです。渡辺淳一と林真理子が絶賛しています。第二回婦人公論文芸賞受賞作品だそうです。
この時点で大体想像つく人がいると思います。そしてその想像はほとんど当たってます。
読む前に確かめて欲しい岩井志麻子を読む際のおすすめ順。
『ぼっけえ、きょうてえ』>『魔羅節』>『ラック・ヴィエン』>『自由戀愛』>『チャイ・コイ』
特に『ラック・ヴィエン』は『チャイ・コイ』より先に読んではいけません。最初に『チャイ・コイ』読むのも不幸の元です。『自由戀愛』は『チャイ・コイ』への布石だと思って読んでおくと幸せになれます。
ほとんど『ラック・ヴィエン』と同じです。ただ、ホラーではないので、仕掛けとしての落ちはありません。ベトナムに行った私が愛人と出会う四日間の物語。作品の八割近くがベッドシーンで、かつ女性一人称、かつ渡辺淳一と林真理子が絶賛しそうな内容です。この時点でみじんこが想像したものと、内容のズレは二割もないと思います。ひたすらベッドシーン、回想もベッドシーン、淡々とした上品な文章で延々とベッドシーン。生々しい場面のはずなのに、露骨な性描写の不快感を全く与えないところはさすが。いつのまにこんな文章も書けるようになったのか岩井志麻子。引き出しが広いというか、守備範囲の広さに舌を巻きました。どの時代でもどの国でも書くし、上品にも下品にも、思いのままに書いてみせる幅の広さ。
濡れ場の半分くらいは、主人公の人格をあらわすためのエピソードで、実際に物語中に占める量より少なく感じました。5割くらいかなと思っていたら8割。言われて確かめてびっくりしました。
これにて「文庫岩井志麻子大会」閉会。
塩野七生、新潮文庫。
「これ誕生日プレゼント〜☆」と友人がくれました。誕生日に塩野七生……。ここだけ聞くとやけにハイソな人生を送っているように聞こえるので不思議。
塩野七生の映画エッセイ。映画鑑賞と読書を同列のものとして育った、イタリア在住の作家が語る映画への愛(と自分の趣味)。
みじんこは、取り上げられた映画のうち、ちゃんと見た数は片手で足りてしまうような人間ですが、それでも大変楽しく読めました。まず感動したのは、語り口の渋さ。漢字の選択といい、送り仮名の使い方といい、古きよき時代の香りがします。ああ素敵だ。映画を通して恋愛も政治も戦争も音楽も文化も、縦横無尽に語る塩野節。ものをつくる人間としての立場から見た映画の姿も面白かったし、イタリアに住む日本人としての視点も面白い。「ゲイリー・クーパーが好きだ好きだ」と愛を語り倒す、昔お嬢さん今作家、という塩野七生は超キュート。
印象深かったのは、「’50年代のハリウッドの最高の美女」エヴァ・ガードナー。世に完璧な美女はいるのもだとかなり長いこと写真を凝視してしまいました。何処にも訂正の余地がない、何処をとっても完璧な美貌なんて生まれてはじめてみました。そのポスターを見ただけで、会ったことも歌を聞いたこともない歌姫に心底ほれ込んで純愛をささげた首吊り判事。名誉とまで言うか!しかし写真を見ればこれが納得せずにいられようか。これは死ぬまでに『ロイ・ビーン』を見ねばと決意しました。
女優の持つ、現実を越える虚構のちから。ヨーロピアン・ジゴロのエピソードにはさすがヨーロッパと感歎したし、若い男なんて二人で一人前みたいなものだから、一人でも存在感充分という年頃になってから一人に絞ればいいのです、という主張には吹き出してしまいました。頭っから尻尾まで、ああそうだ、え、そうなのか、なるほど、それもありだな、と毎回示されるエピソードや考えかたに賛同したり首を傾げたり、考え込まされたり笑ったりと、読んでいる間実に充実しておりました。
要するに、感想や観賞態度というのは本人の価値観その他がまるっとあらわれるわけで、いい物をかくひとは何を書いても面白い、というのはこういうことなのだなあとしみじみ思いました。
「これ誕生日プレゼント〜☆」と友人がくれました。誕生日に塩野七生……。ここだけ聞くとやけにハイソな人生を送っているように聞こえるので不思議。
塩野七生の映画エッセイ。映画鑑賞と読書を同列のものとして育った、イタリア在住の作家が語る映画への愛(と自分の趣味)。
みじんこは、取り上げられた映画のうち、ちゃんと見た数は片手で足りてしまうような人間ですが、それでも大変楽しく読めました。まず感動したのは、語り口の渋さ。漢字の選択といい、送り仮名の使い方といい、古きよき時代の香りがします。ああ素敵だ。映画を通して恋愛も政治も戦争も音楽も文化も、縦横無尽に語る塩野節。ものをつくる人間としての立場から見た映画の姿も面白かったし、イタリアに住む日本人としての視点も面白い。「ゲイリー・クーパーが好きだ好きだ」と愛を語り倒す、昔お嬢さん今作家、という塩野七生は超キュート。
印象深かったのは、「’50年代のハリウッドの最高の美女」エヴァ・ガードナー。世に完璧な美女はいるのもだとかなり長いこと写真を凝視してしまいました。何処にも訂正の余地がない、何処をとっても完璧な美貌なんて生まれてはじめてみました。そのポスターを見ただけで、会ったことも歌を聞いたこともない歌姫に心底ほれ込んで純愛をささげた首吊り判事。名誉とまで言うか!しかし写真を見ればこれが納得せずにいられようか。これは死ぬまでに『ロイ・ビーン』を見ねばと決意しました。
女優の持つ、現実を越える虚構のちから。ヨーロピアン・ジゴロのエピソードにはさすがヨーロッパと感歎したし、若い男なんて二人で一人前みたいなものだから、一人でも存在感充分という年頃になってから一人に絞ればいいのです、という主張には吹き出してしまいました。頭っから尻尾まで、ああそうだ、え、そうなのか、なるほど、それもありだな、と毎回示されるエピソードや考えかたに賛同したり首を傾げたり、考え込まされたり笑ったりと、読んでいる間実に充実しておりました。
要するに、感想や観賞態度というのは本人の価値観その他がまるっとあらわれるわけで、いい物をかくひとは何を書いても面白い、というのはこういうことなのだなあとしみじみ思いました。
岩井志麻子、集英社文庫。
「美貌と才能とお金、そして幸せな家庭。全てに恵まれた「私」は、執筆に専念するため、マンションを借りる」
そして「私」は担当編集者の三浦君がマンションを訪れるのを心待ちにしながら、マンションの隣にある古びたアパートの住人達をモデルに、小説を書き始めた。
割と普通。秀麗で醜悪な筆致は、冷たく乾いた空気の中でも相変わらず腐臭を漂わせているけれど、いつもに比べると大人しめ。その中で、「いずれ檸檬は月になり」では、薄い膜を一枚通したような遠さが目新しい。うっすらと檸檬色に包まれ気が狂いそうなほど歪んだ、夢のような世界。
解説の言葉、「枠物語」が一瞬なんのことか思い出せずに悩んでしまいましたが、確かになるほど、三浦君と私のパートに挟まれた作中作は「枠取りされた物語」という形式を見事に踏襲しています。しかも落ちが(ネタバレ)なので枠は(ネタバレ)重になってます。
長らく伝統として積み上げられ磨き上げられ記号化された「花鳥風月」。芸術家は、美しいそれらに地獄を透かし見ていたけれど、岩井志麻子は逆でした。現実の地獄の上に、絢爛たる「花鳥風月」を見る。解説にも書いてありますが、甘美な地獄を描く岩井志麻子にすれば、それはもう当然の帰結なのかもしれない、と強く印象に残ったのでした。
「美貌と才能とお金、そして幸せな家庭。全てに恵まれた「私」は、執筆に専念するため、マンションを借りる」
そして「私」は担当編集者の三浦君がマンションを訪れるのを心待ちにしながら、マンションの隣にある古びたアパートの住人達をモデルに、小説を書き始めた。
割と普通。秀麗で醜悪な筆致は、冷たく乾いた空気の中でも相変わらず腐臭を漂わせているけれど、いつもに比べると大人しめ。その中で、「いずれ檸檬は月になり」では、薄い膜を一枚通したような遠さが目新しい。うっすらと檸檬色に包まれ気が狂いそうなほど歪んだ、夢のような世界。
解説の言葉、「枠物語」が一瞬なんのことか思い出せずに悩んでしまいましたが、確かになるほど、三浦君と私のパートに挟まれた作中作は「枠取りされた物語」という形式を見事に踏襲しています。しかも落ちが(ネタバレ)なので枠は(ネタバレ)重になってます。
長らく伝統として積み上げられ磨き上げられ記号化された「花鳥風月」。芸術家は、美しいそれらに地獄を透かし見ていたけれど、岩井志麻子は逆でした。現実の地獄の上に、絢爛たる「花鳥風月」を見る。解説にも書いてありますが、甘美な地獄を描く岩井志麻子にすれば、それはもう当然の帰結なのかもしれない、と強く印象に残ったのでした。
『楽園 ラック・ヴィエン』
2005年5月16日 未分類岩井志麻子、角川ホラー文庫。
永遠に夏の続くベトナムを舞台にした、官能ホラー。
ホラーである必要を特に感じないんですが、それは「ホラーと名乗る資格なし」という意味ではなく、ホラーとしての落ちがなくても充分成立するだけのちからを持った物語、という意味で。あるいは、ホラーとしての落ちなどなくてもこの本は充分にホラーかもしれません。極彩色の甘美な地獄、索漠とした清潔な天国、というものが存在するなら。
凍える東京に男を残して、灼熱のベトナムに、未だ見ぬ「彼」を求めて旅立った私、は、私を待ち続けていた「彼」に出会う。
うっかり『チャイ・コイ』を同時進行で読んでしまう痛恨。おかげで頭の中で細部がごちゃ混ぜですよ。しかし先に『チャイ・コイ』読んでから出なくて良かった。途中で気付いて刊行順に立ち返ることができたのは不幸中の幸い。
やたらと対句表現が多いところや、きらきらしい硬質な語り口なんかは「若いな岩井志麻子」という感じ。ラスト付近でだらーっとなってしまうのも、今まで読んだ本と比べると、崩れてるとまでは行かないものの甘いな、という気がする。
しかし、上手い。半分くらいがこってりベッドシーンにも拘らず、読ませる読ませる。腐乱寸前の華麗さ、絢爛たる地獄を描かせれば、岩井志麻子の右に出るものはない。不幸の予感の甘美さに打ち震えるヒロイン、という造作からしてそこいらでお目にかかれる凡百の設定を凌いでます。耽美好きの心を動かす醜悪さ。日本の閉鎖的で陰湿な土地も、騒がしく混沌とした南の国も、同じほど魅力的に地獄と天国の両方を写す姿として描く筆力。
絶対、岩井志麻子は大化けするぞと思いながら買い集めていた甲斐がありました。感想書くために調べたら、ものすごい勢いで色々受賞してるんですね……。みっつくらいしか知らなかった。がくー。
「彼」のなにげない美形描写が面白いです。いや、ほんと臆面もないという感じで。
永遠に夏の続くベトナムを舞台にした、官能ホラー。
ホラーである必要を特に感じないんですが、それは「ホラーと名乗る資格なし」という意味ではなく、ホラーとしての落ちがなくても充分成立するだけのちからを持った物語、という意味で。あるいは、ホラーとしての落ちなどなくてもこの本は充分にホラーかもしれません。極彩色の甘美な地獄、索漠とした清潔な天国、というものが存在するなら。
凍える東京に男を残して、灼熱のベトナムに、未だ見ぬ「彼」を求めて旅立った私、は、私を待ち続けていた「彼」に出会う。
うっかり『チャイ・コイ』を同時進行で読んでしまう痛恨。おかげで頭の中で細部がごちゃ混ぜですよ。しかし先に『チャイ・コイ』読んでから出なくて良かった。途中で気付いて刊行順に立ち返ることができたのは不幸中の幸い。
やたらと対句表現が多いところや、きらきらしい硬質な語り口なんかは「若いな岩井志麻子」という感じ。ラスト付近でだらーっとなってしまうのも、今まで読んだ本と比べると、崩れてるとまでは行かないものの甘いな、という気がする。
しかし、上手い。半分くらいがこってりベッドシーンにも拘らず、読ませる読ませる。腐乱寸前の華麗さ、絢爛たる地獄を描かせれば、岩井志麻子の右に出るものはない。不幸の予感の甘美さに打ち震えるヒロイン、という造作からしてそこいらでお目にかかれる凡百の設定を凌いでます。耽美好きの心を動かす醜悪さ。日本の閉鎖的で陰湿な土地も、騒がしく混沌とした南の国も、同じほど魅力的に地獄と天国の両方を写す姿として描く筆力。
絶対、岩井志麻子は大化けするぞと思いながら買い集めていた甲斐がありました。感想書くために調べたら、ものすごい勢いで色々受賞してるんですね……。みっつくらいしか知らなかった。がくー。
「彼」のなにげない美形描写が面白いです。いや、ほんと臆面もないという感じで。
『東京のオカヤマ人』
2005年5月16日 未分類岩井志麻子、講談社文庫。
「エッセイと呼ぶにはあまりに怖い物語」14話を収録。
ホラー作家が現実の世界で遭遇する、怖い人、面白い人、陰惨な人、陽気な人、いわく言い難い物語を持ち込んでくる「岩井志麻子のファン」たち……。
「私をモデルに小説を書くのをやめてください」「私生活を覗き見るのを(以下略)」「運命の人、だから僕と(以下略)」の三種類に大別される、明らかに電波っぱなファンをひきよせまくり、「キチガイの誘蛾灯」とまで讃えられた岩井志麻子。「岩井志麻子が嫌いだ嫌いだ殺したいと思いながら、どんな小さな記事でも読まずにはいられない、そういった人たちこそが本当のファンではないのか?」と言い出してしまう岩井志麻子。
さすがだ。
解説に人の話によると、テレビ出演した際に「好みのタイプは小太りでなんでも言うことを聞いてくれる人、デブの奴隷男が理想」と言い放ち、放送できるのか危ぶまれるほどの持ちネタを披露したとか。ものすごく見たいその番組。ワールドワイドにデンジャラス。
東京に出て、小説家としてやっていけるようになったら「わしの地べたが欲しい!」と言い出すところなんてものすごく可愛らしいのにね。
エロ話が好きで好きで仕方ない理由、を読んで、あっと思った。
「あなたがどんな性生活を送っているか言ってみたまえ。あなたがどんな人物か言って見せよう」(『発情装置』p.266)
上野千鶴子も同じことを言っていました。
語るのに必要となれば、どんな言葉でも無意味な迂回や躊躇を全くせず、ずばりと言ってのける、言葉の選択に関する直球さがたまりません。
「エッセイと呼ぶにはあまりに怖い物語」14話を収録。
ホラー作家が現実の世界で遭遇する、怖い人、面白い人、陰惨な人、陽気な人、いわく言い難い物語を持ち込んでくる「岩井志麻子のファン」たち……。
「私をモデルに小説を書くのをやめてください」「私生活を覗き見るのを(以下略)」「運命の人、だから僕と(以下略)」の三種類に大別される、明らかに電波っぱなファンをひきよせまくり、「キチガイの誘蛾灯」とまで讃えられた岩井志麻子。「岩井志麻子が嫌いだ嫌いだ殺したいと思いながら、どんな小さな記事でも読まずにはいられない、そういった人たちこそが本当のファンではないのか?」と言い出してしまう岩井志麻子。
さすがだ。
解説に人の話によると、テレビ出演した際に「好みのタイプは小太りでなんでも言うことを聞いてくれる人、デブの奴隷男が理想」と言い放ち、放送できるのか危ぶまれるほどの持ちネタを披露したとか。ものすごく見たいその番組。ワールドワイドにデンジャラス。
東京に出て、小説家としてやっていけるようになったら「わしの地べたが欲しい!」と言い出すところなんてものすごく可愛らしいのにね。
エロ話が好きで好きで仕方ない理由、を読んで、あっと思った。
「あなたがどんな性生活を送っているか言ってみたまえ。あなたがどんな人物か言って見せよう」(『発情装置』p.266)
上野千鶴子も同じことを言っていました。
語るのに必要となれば、どんな言葉でも無意味な迂回や躊躇を全くせず、ずばりと言ってのける、言葉の選択に関する直球さがたまりません。
『ハローワールド BLAZE UP』
2005年5月15日 未分類涼風涼+ニトロプラス、角川スニーカー文庫。
PCソフト「ハローワールド」ノベライズ、完結編。
壁本。
予想通りお嬢様関係の人々は一行も登場しなかった。
二冊で終わるような長さじゃないのに、圧縮圧縮不可逆変化!で切り詰めた結果、省略も大概にしろよという骨しか残らない物語になりました。どこに「BLAZE UP」である必要があったのか、最後まで読んでもわかりません。トゥルーエンドなのに全員揃わないってなにさ!純子さんルートだと思ってわくわくしていたわたしの純情をどうしてくれる。
うん、もしかして涼風涼はたいそう優秀なノベライズ屋かもしれない、と本気で思いました。こういう書き手がいるおかげで、「原作のあるノベライズは二流」って認識が当たり前のようにまかり通るんだよー!
対HIKARI戦で涙し、対オシリスで「やってること同じだなー」と解っているにも関わらず涙し、ED見て号泣した(ノーマル・トゥルー関係なく5回目くらいまでED見るたびに泣いてた)わたしの思い入れはこの程度でくじけないもん。……くじけない……もん……。駄目だ、くじけそう。
原作はともかく、小説ではくじけます。何も知らずに手を取った人が「つまらないからイラネ」ってなったら、ほんとどうしてくれるのかなー、と思いつつ後書き読んで、投げる寸前でした。
「完全版」
えーと……、
本に挟まっていたリーフレットを見て、
「連載開始」
……えーと、
「我らはそろそろ『ニトロ信者』をやめて、虚淵信者とか鋼屋ファンとか和樹スキーとか、名称を改めた方がいいんじゃないの?」と、家主と激論を交わしている最中であります。
メディアミックス自体は喜ぶべきことなのかもしれないけれど、苦渋を飲んだ経験が多すぎる、メディアミックス否定論者になりそうです。
「青い記憶」「BLAZE UP」は(使用メディアがアレだからという理由で)聞くのにこっそりと人目を忍ぶ必要がないくらい素敵な曲です。
PCソフト「ハローワールド」ノベライズ、完結編。
壁本。
予想通りお嬢様関係の人々は一行も登場しなかった。
二冊で終わるような長さじゃないのに、圧縮圧縮不可逆変化!で切り詰めた結果、省略も大概にしろよという骨しか残らない物語になりました。どこに「BLAZE UP」である必要があったのか、最後まで読んでもわかりません。トゥルーエンドなのに全員揃わないってなにさ!純子さんルートだと思ってわくわくしていたわたしの純情をどうしてくれる。
うん、もしかして涼風涼はたいそう優秀なノベライズ屋かもしれない、と本気で思いました。こういう書き手がいるおかげで、「原作のあるノベライズは二流」って認識が当たり前のようにまかり通るんだよー!
対HIKARI戦で涙し、対オシリスで「やってること同じだなー」と解っているにも関わらず涙し、ED見て号泣した(ノーマル・トゥルー関係なく5回目くらいまでED見るたびに泣いてた)わたしの思い入れはこの程度でくじけないもん。……くじけない……もん……。駄目だ、くじけそう。
原作はともかく、小説ではくじけます。何も知らずに手を取った人が「つまらないからイラネ」ってなったら、ほんとどうしてくれるのかなー、と思いつつ後書き読んで、投げる寸前でした。
「完全版」
えーと……、
本に挟まっていたリーフレットを見て、
「連載開始」
……えーと、
「我らはそろそろ『ニトロ信者』をやめて、虚淵信者とか鋼屋ファンとか和樹スキーとか、名称を改めた方がいいんじゃないの?」と、家主と激論を交わしている最中であります。
メディアミックス自体は喜ぶべきことなのかもしれないけれど、苦渋を飲んだ経験が多すぎる、メディアミックス否定論者になりそうです。
「青い記憶」「BLAZE UP」は(使用メディアがアレだからという理由で)聞くのにこっそりと人目を忍ぶ必要がないくらい素敵な曲です。
上野千鶴子、筑摩書房。「エロスのシナリオ」。
あったので読む。そして実は二回目。ちなみにわたしの本ではありません。
98年の本なので安心して読めました。古くてわかりやすい。「成文化」ということの偉大さに改めて感じ入りました。
しかしまあなんと統一感のない本よ。上野千鶴子がフェミニズムに関連して書いたものなら、論文でもエッセイでもまとめて収録、という感じ。文章が論文調なので、うっかり論文だと信じて読んでいた章が、実は非常に主観的な主張で、単に論文調の文章し書かけないがために論文に見えていただけ、と気付いたときには苦笑いしました。迂闊な自分と書き分けの出来ない上野千鶴子に。よくよく考えてみれば、この人の専門はあくまで論文なのだよなあ。ちょっと要求しすぎたかも。
援助交際など、過去のものとなり、解体・定着したものについて論じているくだりを読むのはとてもわかりやすくて楽しい。激動真っ只中にいる人間には見えないことやわからないことを、後から見て呑気に「あれはああだったのさ」と語る無責任な楽しみ。間違っていること正しい(と思われる)ことなど、それらのことを知っている「今のわたし」の視点で読み、したり顔で同調したり反論したりする楽しさ。意地が悪い読み方ですが、読者特権というのはつまりこういうことなのではないかしらん。
それはさておき。作品世界における実験、「ジェンダーレス・ワールドの<愛>の実験」の章が今回一番楽しめました。少女漫画で少年愛が描かれる理由について、フェミニズム的な視点で解釈したくだりなんですが、長野まゆみで散々分離されたセクシュアリティとジェンダーを見て、初回より理解が進んだおかげかと。しかしひるがえせばこの「過去の死んだ主張」を理解できる時点で、わたしは現在の生きた現象に対する理解からは置いてけぼりを食らってるわけで、甘んじて受けよう超保守派の称号を。昨今巷に氾濫する商業BLには食指が動かなくってよ!(触手も動きません)。というかあの恥ずかしい表紙とタイトルを何とかしてくださ……い……。
とりあえず、「宮台君」「(ハートマーク)」はやめなさいと。あと、ヒステリックな物言いと言われるのも無理なかろう他者への評価形容詞、などなど、が見ものでした。発情装置、というある種テクニカルタームを解説無しにタイトルに使っちゃうセンスもどうなのかなあ、サブタイトルっぽい位置に「エロスのシナリオ」なんて書いてあるし。勘違いして購入した人は、なんじゃあこりゃあ!ってなること間違いないと思います。それはそれで面白い光景だろうけども。
最近名前を聞かないけど、今なにしてるのかなー。
あったので読む。そして実は二回目。ちなみにわたしの本ではありません。
98年の本なので安心して読めました。古くてわかりやすい。「成文化」ということの偉大さに改めて感じ入りました。
しかしまあなんと統一感のない本よ。上野千鶴子がフェミニズムに関連して書いたものなら、論文でもエッセイでもまとめて収録、という感じ。文章が論文調なので、うっかり論文だと信じて読んでいた章が、実は非常に主観的な主張で、単に論文調の文章し書かけないがために論文に見えていただけ、と気付いたときには苦笑いしました。迂闊な自分と書き分けの出来ない上野千鶴子に。よくよく考えてみれば、この人の専門はあくまで論文なのだよなあ。ちょっと要求しすぎたかも。
援助交際など、過去のものとなり、解体・定着したものについて論じているくだりを読むのはとてもわかりやすくて楽しい。激動真っ只中にいる人間には見えないことやわからないことを、後から見て呑気に「あれはああだったのさ」と語る無責任な楽しみ。間違っていること正しい(と思われる)ことなど、それらのことを知っている「今のわたし」の視点で読み、したり顔で同調したり反論したりする楽しさ。意地が悪い読み方ですが、読者特権というのはつまりこういうことなのではないかしらん。
それはさておき。作品世界における実験、「ジェンダーレス・ワールドの<愛>の実験」の章が今回一番楽しめました。少女漫画で少年愛が描かれる理由について、フェミニズム的な視点で解釈したくだりなんですが、長野まゆみで散々分離されたセクシュアリティとジェンダーを見て、初回より理解が進んだおかげかと。しかしひるがえせばこの「過去の死んだ主張」を理解できる時点で、わたしは現在の生きた現象に対する理解からは置いてけぼりを食らってるわけで、甘んじて受けよう超保守派の称号を。昨今巷に氾濫する商業BLには食指が動かなくってよ!(触手も動きません)。というかあの恥ずかしい表紙とタイトルを何とかしてくださ……い……。
とりあえず、「宮台君」「(ハートマーク)」はやめなさいと。あと、ヒステリックな物言いと言われるのも無理なかろう他者への評価形容詞、などなど、が見ものでした。発情装置、というある種テクニカルタームを解説無しにタイトルに使っちゃうセンスもどうなのかなあ、サブタイトルっぽい位置に「エロスのシナリオ」なんて書いてあるし。勘違いして購入した人は、なんじゃあこりゃあ!ってなること間違いないと思います。それはそれで面白い光景だろうけども。
最近名前を聞かないけど、今なにしてるのかなー。
現時点で読了but感想まだの本。
2005年4月30日 未分類『聖戦ヴァンデ(上下)』
『今夜、すべてのバーで』
『あらしのよるに3〜6』
再戦予定→『ブライトライツ・ホーリーランド』
自転車でころびかけてくるぶし痛打。サドルに腰掛けた状態で、片足(欲を言えば利き足)が地面に安定感を持って届く高さ、が理想なんですがただいま激論中。
いたいよーいたいよー。
『今夜、すべてのバーで』
『あらしのよるに3〜6』
再戦予定→『ブライトライツ・ホーリーランド』
自転車でころびかけてくるぶし痛打。サドルに腰掛けた状態で、片足(欲を言えば利き足)が地面に安定感を持って届く高さ、が理想なんですがただいま激論中。
いたいよーいたいよー。
『今夜、すべてのバーで』
2005年4月28日 未分類中島らも、講談社文庫。
アル中の主人公が、いよいよ危険な状態になって入院。退院するまで。ノンフィクションではないけれど、「ほとんど実話」らしい。
はじめて読んだのが高校生のとき、母が図書館から借りてきた単行本で、二度目は大学生のとき友人の部屋にあったものを見つけて借りました。三度目は引越し後の荷物整理の際に発見、何気なく手にとってそのまま最後まで一気読み。
読み返すたびに「細部まで覚えてる」と印象の強さを確かめ、新しい発見をし、いい本だと唸ってます。記憶に残る本は多いけれど、細部まではっきり覚えた状態で「また読みたいなー」と思いながら数年を過ごし、再読してはいい本だとこころの震えるような、くっきり輪郭の残る本はこの一冊きりしかないような気がします。
今回印象が強かったのは、医者の赤河と西浦老、中に中空を持った立体をつくる技術の話。特に医者は、前読んだときよりもいいひと度があがってました。もう何年かして読み直したら、もっといい人になっているのかしらん。
資料に裏打ちされた客観性の高い視点と、語り口と、それゆえに際立つ「中毒」のひどさ。アル中の資料を肴にアルコールを流し込んできた主人公が、「どうしてアルコールに生きてアルコールに死ぬ、たったそれだけのさっぱりした人生を送ってはいけないのか?」と悩む時のリアルさ。「自分が何か特別だと思っていないか?」という赤河の問いかけには、自分の中の青い部分がぎくーっとしたのがよくわかりました。現実が鋭すぎて怖い自分が何か特別な人間であるなら、それはつまり「特別に劣っている」ということなのでしょう。「アルコールを飲まないことによって与えられる報酬が、アルコールをやめるために必要なもの」この至言!そのまま生き死にに当てはめても充分通じる。
鋭い、でもあざやか、でもなく「くっきり」した本だという感想は、何年たってもかわりませんでした。
出てくる食べものが物凄くおいしそうだったり、超芸術について語られてたり、色々と身につまされる体験がさりげなくちりばめられていたり、巻末に山田風太郎との対談が収録してあったりと、やたら充実度が高いのが特徴です。
アル中の主人公が、いよいよ危険な状態になって入院。退院するまで。ノンフィクションではないけれど、「ほとんど実話」らしい。
はじめて読んだのが高校生のとき、母が図書館から借りてきた単行本で、二度目は大学生のとき友人の部屋にあったものを見つけて借りました。三度目は引越し後の荷物整理の際に発見、何気なく手にとってそのまま最後まで一気読み。
読み返すたびに「細部まで覚えてる」と印象の強さを確かめ、新しい発見をし、いい本だと唸ってます。記憶に残る本は多いけれど、細部まではっきり覚えた状態で「また読みたいなー」と思いながら数年を過ごし、再読してはいい本だとこころの震えるような、くっきり輪郭の残る本はこの一冊きりしかないような気がします。
今回印象が強かったのは、医者の赤河と西浦老、中に中空を持った立体をつくる技術の話。特に医者は、前読んだときよりもいいひと度があがってました。もう何年かして読み直したら、もっといい人になっているのかしらん。
資料に裏打ちされた客観性の高い視点と、語り口と、それゆえに際立つ「中毒」のひどさ。アル中の資料を肴にアルコールを流し込んできた主人公が、「どうしてアルコールに生きてアルコールに死ぬ、たったそれだけのさっぱりした人生を送ってはいけないのか?」と悩む時のリアルさ。「自分が何か特別だと思っていないか?」という赤河の問いかけには、自分の中の青い部分がぎくーっとしたのがよくわかりました。現実が鋭すぎて怖い自分が何か特別な人間であるなら、それはつまり「特別に劣っている」ということなのでしょう。「アルコールを飲まないことによって与えられる報酬が、アルコールをやめるために必要なもの」この至言!そのまま生き死にに当てはめても充分通じる。
鋭い、でもあざやか、でもなく「くっきり」した本だという感想は、何年たってもかわりませんでした。
出てくる食べものが物凄くおいしそうだったり、超芸術について語られてたり、色々と身につまされる体験がさりげなくちりばめられていたり、巻末に山田風太郎との対談が収録してあったりと、やたら充実度が高いのが特徴です。
『聖戦ヴァンデ』(上下)
2005年4月27日 未分類藤本ひとみ、角川文庫。
フランス革命を舞台に、複数青年の劇的な人生の岐路を描いた作品。
背表紙には「青年たちの友情と憎悪、別れと再会を通じ、革命美談の裏に隠されてきたフランス史の暗黒を暴く、懇親の力作長編!」ってあるんですが、フランス革命といえばギロチンで、更に更に勇気と決断で、捕虜を積んで船を沈めろー、というイメージがある当方には「美談てなにさ」とかなり腑に落ちない解説。隠す以前の問題じゃないのか。革命は常に粛清を伴うものだと信じている。
それはともかく。
少女めいた美貌の金髪お貴族様アンリ、地味で誠実で庶民出身でアンリと運命的な出会いをしたニコラ。革命の中心人物であるロベスピエールにアホほど傾倒して熱狂的な革命推進派のジュリアン。
全てのエピソードが一々ドラマティックで、先が気になってなかなか読むのを中断できない。ニコラ放逐、サン・ジュスト噴水に飛込み、アンリ自殺と枚挙にいとまなし。剣と鞘のエピソードには、懐中時計の鎖とべっ甲の櫛を贈りあったどこぞの夫婦かと、しょうもない連想がはたらきましたが。
サン・ジュストとかロベスピエールとかお前ら肩抱きしめすぎですよとかおかしなところばかり目について困ります。というか歴史小説で美少年が登場するのって注意深く避けられてたんじゃないんですか?出てくるなり「少女のような童顔」「官能的な感じのする微笑」って、思わずのけぞったわ。うわー、躊躇しないなさすが藤本ひとみ、と思った人他にもいるはずだ!史実にはとんと疎いですが、アンリってそんなに美少年で有名だったのですか……?
フロル=心のオアシス。
情熱の余り大量虐殺に突っ走るジュリアン、内通に苦しめられるアンリ、かつて半身とまで思ったアンリとの正面対決を前に手紙を握りつぶすニコラ、と、おいしいエピソードは続くんだけれども、時間のスパンが長いので、後半になると一度きり、しかも名前しか登場しない登場人物が増加。同時にこまごまとした戦闘もどんどん省かれてしまうので、どうしても駆け足急ぎ足の感が否めない。
素敵だ!と思って再登場を心待ちにしてたミラボーがいつのまにかお亡くなりになってたり、結局ジュリアンはどうなったのか今ひとつ掴みにくかったり、微妙に不満が残りますが、フランス革命って面白いなー、とかなり大きな収穫がありました。
フランス革命を舞台に、複数青年の劇的な人生の岐路を描いた作品。
背表紙には「青年たちの友情と憎悪、別れと再会を通じ、革命美談の裏に隠されてきたフランス史の暗黒を暴く、懇親の力作長編!」ってあるんですが、フランス革命といえばギロチンで、更に更に勇気と決断で、捕虜を積んで船を沈めろー、というイメージがある当方には「美談てなにさ」とかなり腑に落ちない解説。隠す以前の問題じゃないのか。革命は常に粛清を伴うものだと信じている。
それはともかく。
少女めいた美貌の金髪お貴族様アンリ、地味で誠実で庶民出身でアンリと運命的な出会いをしたニコラ。革命の中心人物であるロベスピエールにアホほど傾倒して熱狂的な革命推進派のジュリアン。
全てのエピソードが一々ドラマティックで、先が気になってなかなか読むのを中断できない。ニコラ放逐、サン・ジュスト噴水に飛込み、アンリ自殺と枚挙にいとまなし。剣と鞘のエピソードには、懐中時計の鎖とべっ甲の櫛を贈りあったどこぞの夫婦かと、しょうもない連想がはたらきましたが。
サン・ジュストとかロベスピエールとかお前ら肩抱きしめすぎですよとかおかしなところばかり目について困ります。というか歴史小説で美少年が登場するのって注意深く避けられてたんじゃないんですか?出てくるなり「少女のような童顔」「官能的な感じのする微笑」って、思わずのけぞったわ。うわー、躊躇しないなさすが藤本ひとみ、と思った人他にもいるはずだ!史実にはとんと疎いですが、アンリってそんなに美少年で有名だったのですか……?
フロル=心のオアシス。
情熱の余り大量虐殺に突っ走るジュリアン、内通に苦しめられるアンリ、かつて半身とまで思ったアンリとの正面対決を前に手紙を握りつぶすニコラ、と、おいしいエピソードは続くんだけれども、時間のスパンが長いので、後半になると一度きり、しかも名前しか登場しない登場人物が増加。同時にこまごまとした戦闘もどんどん省かれてしまうので、どうしても駆け足急ぎ足の感が否めない。
素敵だ!と思って再登場を心待ちにしてたミラボーがいつのまにかお亡くなりになってたり、結局ジュリアンはどうなったのか今ひとつ掴みにくかったり、微妙に不満が残りますが、フランス革命って面白いなー、とかなり大きな収穫がありました。
『水の都の王女』(上下)
2005年4月20日 未分類J・グレゴリイ・キイズ、岩原明子訳、ハヤカワ文庫。
小川の女神のために、大河の神を殺す誓いを立てて旅に出たペルカルは、若さゆえにほとんど取り返しがつかないようなあやまちをしでかしてしまう。その罪を償うためにせめて初志貫徹俺頑張る!と決意するも、運命は彼を河の中に放り込んではるか南の王国まで流し去ってしまうのでした。
一方、南の大河の国では、王女ヘジが儀式の後会えなくなってしまった従兄弟を探し、みずからの血統としきたりに抗っていた。従兄弟を地下に連れ去った儀式の日は近づき、ヘジは逃れ難い運命に逆らうために救いの手を求めた。
真っ当すぎてなんの感銘も抱かなかったので、上下巻まとめて感想。
ペルカルとヘジ二人の視点から交互に語られていく構成。視点交替が行われるポイントが絶妙で、読者の先が気になるという気持ちを掻き立てるのが上手い。でもそれだけ。ここで引き合いに出すのはファンに罵られそうですが、宮部みゆきのように「何もかも上手いけど偏向を感じないので魅力も感じない」。続編があるんですが読みたいと思いませんでした。ストーリーも世界観も舞台設定も登場人物も、全て高水準で真っ当な物語ほど退屈する、難儀な性癖の読者も世にはいるということで。
海外ファンタジーは、登場人物の成長が特になんの反省もないうちに行われ、後悔や反省を通して考え方が変化したというよりは、年食って心身ともに発達したので大人になりました、というような描かれ方をしたものにばかり遭遇していたので、読むのがかなり久しぶりです。ペルカルは前半その傾向が顕著な上に主人公とは思えない嫌な奴だったので、素敵ヒロインのヘジにばっかり目が行ってました。ヘジはいいよ、頑固で我儘で気位が高くて気が強くて聡明で自分がするべきことを知っている。周囲の惰性や圧力に膝を折らない意志の強さがたまらんですな。前田珠子の『万象の杖』はいつ続刊が出るのだろうかと悲しくなりましたが。
しかし異世界ファンタジーといえばインディアン文化、みたいな作品との遭遇率が高いのは何故なんでしょう。アメリカの人は異文化と言われたときにインディアン文化しか思いつかないのでしょうか。まあ、いきなり勘違いも甚だしい和風ファンタジーとか漢字が一切登場しない中華ファンタジーとか書かれるよりはマシか。ヨーロッパは近すぎるだろうし、考えてみれば日本のファンタジーもヨーロッパのような場所が舞台のものが圧倒的大多数だった時代もあるわけで。知識と文化の距離が反映されているのかなあと勝手な妄想すれば、それはそれで楽しく興味深い。
小川の女神のために、大河の神を殺す誓いを立てて旅に出たペルカルは、若さゆえにほとんど取り返しがつかないようなあやまちをしでかしてしまう。その罪を償うためにせめて初志貫徹俺頑張る!と決意するも、運命は彼を河の中に放り込んではるか南の王国まで流し去ってしまうのでした。
一方、南の大河の国では、王女ヘジが儀式の後会えなくなってしまった従兄弟を探し、みずからの血統としきたりに抗っていた。従兄弟を地下に連れ去った儀式の日は近づき、ヘジは逃れ難い運命に逆らうために救いの手を求めた。
真っ当すぎてなんの感銘も抱かなかったので、上下巻まとめて感想。
ペルカルとヘジ二人の視点から交互に語られていく構成。視点交替が行われるポイントが絶妙で、読者の先が気になるという気持ちを掻き立てるのが上手い。でもそれだけ。ここで引き合いに出すのはファンに罵られそうですが、宮部みゆきのように「何もかも上手いけど偏向を感じないので魅力も感じない」。続編があるんですが読みたいと思いませんでした。ストーリーも世界観も舞台設定も登場人物も、全て高水準で真っ当な物語ほど退屈する、難儀な性癖の読者も世にはいるということで。
海外ファンタジーは、登場人物の成長が特になんの反省もないうちに行われ、後悔や反省を通して考え方が変化したというよりは、年食って心身ともに発達したので大人になりました、というような描かれ方をしたものにばかり遭遇していたので、読むのがかなり久しぶりです。ペルカルは前半その傾向が顕著な上に主人公とは思えない嫌な奴だったので、素敵ヒロインのヘジにばっかり目が行ってました。ヘジはいいよ、頑固で我儘で気位が高くて気が強くて聡明で自分がするべきことを知っている。周囲の惰性や圧力に膝を折らない意志の強さがたまらんですな。前田珠子の『万象の杖』はいつ続刊が出るのだろうかと悲しくなりましたが。
しかし異世界ファンタジーといえばインディアン文化、みたいな作品との遭遇率が高いのは何故なんでしょう。アメリカの人は異文化と言われたときにインディアン文化しか思いつかないのでしょうか。まあ、いきなり勘違いも甚だしい和風ファンタジーとか漢字が一切登場しない中華ファンタジーとか書かれるよりはマシか。ヨーロッパは近すぎるだろうし、考えてみれば日本のファンタジーもヨーロッパのような場所が舞台のものが圧倒的大多数だった時代もあるわけで。知識と文化の距離が反映されているのかなあと勝手な妄想すれば、それはそれで楽しく興味深い。
『ハローワールド 青い記憶』
2005年4月15日 未分類涼風涼、角川スニーカー文庫。
ニトロプラス原作、PCゲームソフトのノベライズ。原作は愛を込めて語りますが、ノベライズとそのノベライズしたライターについては酷評するのでその辺りを踏まえて以下感想どうぞ。
いかにもノベライズらしいノベライズ。ノベライズに求められるところを全て満たしながら、ノベライズに求められる要件以外のなにものも満たそうとしていない。原作のファンが暴動を起こさない程度に原作に忠実に、小説の読み手が一読即座に捨てない程度に文章は巧みに。書き手の個性に用は無いので、できるだけ品行方正にお願いしますよ、というありきたりなノベライズのお手本のような作品ですな。こういう、求められた課題だけはきっちりこなせるけど、それ以上に表現することのない、ノベライズらしいノベライズを書く作家を個人的に「ノベライズ屋」と呼ぶことにしています。
作者に対する解釈は二通り。作品と同じ解釈で見るなら、ものをつくることが好きな人間の集まるところに必ずいる、与えられた課題はそつなくこなすけど、自分からつくりだすことのないタイプ。
好意的に解釈するなら、「ノベライズ屋」に徹底することが出来る巧者。作家本人の作品でありながら原作をきっちり踏襲していて、なおかつ面白い、なんていう作品はほとんど伝説みたいなもので(誰それによるなんとかのノベライズは伝説、という評の仕方は結構目にする)、かつ、うっかり独自色を出した日には、原作ファンから自分の色を出したければオリジナルでやれと言われかねないことを考え、ノベライズは徹底してノベライズとして書く人。この文体この傾向で書くことを、まったく自覚的におこなっているなら巧緻に過ぎる。
そういったノベライズの事情みたいなものはさておいて、『ハローワールド 青い記憶』、端的に評価すると、「つまらない」。
わたしは頭の中に原作がインストール済みなので、脳内補完でそこそこ面白く読めましたが、原作がインストール前の人が楽しめるかどうかは微妙。原作ファンとしてもこれは微妙なラインでしょう。和樹の外界認識が、物語の進行とともに変化していくのが面白いのに、起動3ページ目で戸惑ったりしたら駄目でしょ。そこは戸惑うところじゃなくて、認識に必要なだけ時間が経過するところでしょう!みたいな箇所をぽつぽつと見つけて萎えます。三人称だからこういう事態に陥っているのだとすれば、何故思い切って一人称にしなかったのか謎。一人称と三人称で交互に語ってもいいじゃないか。
ストーリー進行は割りと忠実。でもこれってもしかして純子さんルート……?予想通りお嬢様は一行も登場せず。サブタイトルどおり、各章のタイトルは「青い記憶」のフレーズから。
って、ちょっと待て。巻末の次巻予告、サブタイトル「BLAZE UP」になっていますが!わたしてっきり奈都美ED(ヒロイン全員残るほう)かと思ってたんですが、このタイトルでこの内容だと、純子さんEDでしかも(二人で××××するほう)分岐しかねないんですけどどうなんですか?!
うわー……なんだか違う意味で次の巻が楽しみになってきました。
ニトロプラス原作、PCゲームソフトのノベライズ。原作は愛を込めて語りますが、ノベライズとそのノベライズしたライターについては酷評するのでその辺りを踏まえて以下感想どうぞ。
いかにもノベライズらしいノベライズ。ノベライズに求められるところを全て満たしながら、ノベライズに求められる要件以外のなにものも満たそうとしていない。原作のファンが暴動を起こさない程度に原作に忠実に、小説の読み手が一読即座に捨てない程度に文章は巧みに。書き手の個性に用は無いので、できるだけ品行方正にお願いしますよ、というありきたりなノベライズのお手本のような作品ですな。こういう、求められた課題だけはきっちりこなせるけど、それ以上に表現することのない、ノベライズらしいノベライズを書く作家を個人的に「ノベライズ屋」と呼ぶことにしています。
作者に対する解釈は二通り。作品と同じ解釈で見るなら、ものをつくることが好きな人間の集まるところに必ずいる、与えられた課題はそつなくこなすけど、自分からつくりだすことのないタイプ。
好意的に解釈するなら、「ノベライズ屋」に徹底することが出来る巧者。作家本人の作品でありながら原作をきっちり踏襲していて、なおかつ面白い、なんていう作品はほとんど伝説みたいなもので(誰それによるなんとかのノベライズは伝説、という評の仕方は結構目にする)、かつ、うっかり独自色を出した日には、原作ファンから自分の色を出したければオリジナルでやれと言われかねないことを考え、ノベライズは徹底してノベライズとして書く人。この文体この傾向で書くことを、まったく自覚的におこなっているなら巧緻に過ぎる。
そういったノベライズの事情みたいなものはさておいて、『ハローワールド 青い記憶』、端的に評価すると、「つまらない」。
わたしは頭の中に原作がインストール済みなので、脳内補完でそこそこ面白く読めましたが、原作がインストール前の人が楽しめるかどうかは微妙。原作ファンとしてもこれは微妙なラインでしょう。和樹の外界認識が、物語の進行とともに変化していくのが面白いのに、起動3ページ目で戸惑ったりしたら駄目でしょ。そこは戸惑うところじゃなくて、認識に必要なだけ時間が経過するところでしょう!みたいな箇所をぽつぽつと見つけて萎えます。三人称だからこういう事態に陥っているのだとすれば、何故思い切って一人称にしなかったのか謎。一人称と三人称で交互に語ってもいいじゃないか。
ストーリー進行は割りと忠実。でもこれってもしかして純子さんルート……?予想通りお嬢様は一行も登場せず。サブタイトルどおり、各章のタイトルは「青い記憶」のフレーズから。
って、ちょっと待て。巻末の次巻予告、サブタイトル「BLAZE UP」になっていますが!わたしてっきり奈都美ED(ヒロイン全員残るほう)かと思ってたんですが、このタイトルでこの内容だと、純子さんEDでしかも(二人で××××するほう)分岐しかねないんですけどどうなんですか?!
うわー……なんだか違う意味で次の巻が楽しみになってきました。
長野まゆみ、河出文庫。
94年の書き下ろしなので、初期作品ですね。この頃の長野作品が一番好きだな。夏の景色の描写が鮮烈に美しい。光の移り変わりや色や加減など、目眩がするほど。
岬の空き家にひきつけられる少年、千波矢。子供の頃に出会った兄の幻と、帽子を取ってきてもらう約束をした。ある夏、空き家だった岬の家に引っ越してくる家族があった。
……って、なんですかこの恐ろしいほどのLIKEバッドエンド幕切れは?!
ええー。葵が泳げるようになって、仔犬の飼い主としてふさわしい人間になれたよ、と胸を張ってついでに帽子も返してくれて、兄もなんかこう、いい感じのメッセージを残して消えるとか、そういうエンドじゃ駄目なんですか?可能性としては大団円も充分にありえるラストではあるけれど、そこで終わる必要が何処にあったのか……、やはりバッドエンドなのか?でも、明確に何もかもが破綻して終わりというわけでもないし……。
悩む。
94年の書き下ろしなので、初期作品ですね。この頃の長野作品が一番好きだな。夏の景色の描写が鮮烈に美しい。光の移り変わりや色や加減など、目眩がするほど。
岬の空き家にひきつけられる少年、千波矢。子供の頃に出会った兄の幻と、帽子を取ってきてもらう約束をした。ある夏、空き家だった岬の家に引っ越してくる家族があった。
……って、なんですかこの恐ろしいほどのLIKEバッドエンド幕切れは?!
ええー。葵が泳げるようになって、仔犬の飼い主としてふさわしい人間になれたよ、と胸を張ってついでに帽子も返してくれて、兄もなんかこう、いい感じのメッセージを残して消えるとか、そういうエンドじゃ駄目なんですか?可能性としては大団円も充分にありえるラストではあるけれど、そこで終わる必要が何処にあったのか……、やはりバッドエンドなのか?でも、明確に何もかもが破綻して終わりというわけでもないし……。
悩む。
『ブギーポップ・バウンディング ロスト・メビウス』
2005年4月14日 未分類上遠野浩平、メディアワークス電撃文庫。
二年ぶりのブギーポップ新刊、ということらしいですがそんなに経ってたっけ。「プリン」が挟まっていたせいか、それほど待ったとは思っていなかったので挟み込みのチラシを見てびっくりしました。
ゲストでメインな蒼衣秋良少年が、わけのわからん空間に織機綺とともに閉じ込められてしまってさあ大変。脱出するぞと足手まとい少女+謎のレンガ子供を連れて禿げ上がるほど苦労する話。
ちょっと違う。
「メビウス」が還ろうとしていたある山中。そこには「牙の痕」と呼ばれる場所がある。昔何かがそこで起こった名残らしい。調理学校に通う織機は、蒼衣と食材の買出しのために出かけなければならなくなった。途中で友人に遭遇しながらも、電車バスを乗り継いで目的地に向かう途中、おかしな乗員を乗せたバスは「牙の痕」を通過しようとして――。
大体こんな感じ。
冷静で冷徹で怜悧な蒼衣少年が、途中からカリカリしていて「おいおい、冷静で頭脳派じゃなかったのか?これじゃあただの神経質なヒスじゃないかー」と思っていたら、実は冷静だけれども冷徹とは縁のない少年で、足手まといにしかならない織機を一生懸命かばいながら脱出する方法を模索しているうちに、なんと戦う少年になってしまっているのがすごくおかしい。戦う少年ですよ?少女のためにぼろぼろになりながら奮戦して、どうだと格好つけてみせる、ボーイミーツガールなのかこの話は、と突っ込みたくなるような少年ぶりですよ?ほほえましい。わたしは余り織機が好きじゃないんですけど、こういう少年と脱出行するなら織機以外は考えられないと思います。そこら辺はさすが絶妙の配置。
リセットとリミットの双子姉妹も素敵ィー。「柊」は何処かで出てきていたはずなのに思い出せない!降りてきただの回収しただの、なんだか物語の核心に近づく発言が多発していて、そろそろ詰めにかかっているのか、という印象を受けました。最初の頃に比べると、物語の中に見られる「ひねくれ」がだいぶ減少して、まっすぐな物語になってきているような気がします。一筋縄でいかない価値観のひねりが物語内で平然と炸裂してた初期のあの雰囲気が独特で好きだったんですが、これから王道路線に突入するのでしょうか。それはそれでとても見てみたい。
挟み込みチラシといえば、「ビートのディシプリン」ようやく最終話だそうですが!まだ完結してなかったのか……。何が原因だったのか自分でもわかりませんが、以前「本誌連載は終了した」と思い込んで一部友人にデマを飛ばしてしまったことをお詫びして訂正します。覚えてる限りでは一人にしか話してないはずなので、これから訂正してきます……うぐふぅ。
二年ぶりのブギーポップ新刊、ということらしいですがそんなに経ってたっけ。「プリン」が挟まっていたせいか、それほど待ったとは思っていなかったので挟み込みのチラシを見てびっくりしました。
ゲストでメインな蒼衣秋良少年が、わけのわからん空間に織機綺とともに閉じ込められてしまってさあ大変。脱出するぞと足手まとい少女+謎のレンガ子供を連れて禿げ上がるほど苦労する話。
ちょっと違う。
「メビウス」が還ろうとしていたある山中。そこには「牙の痕」と呼ばれる場所がある。昔何かがそこで起こった名残らしい。調理学校に通う織機は、蒼衣と食材の買出しのために出かけなければならなくなった。途中で友人に遭遇しながらも、電車バスを乗り継いで目的地に向かう途中、おかしな乗員を乗せたバスは「牙の痕」を通過しようとして――。
大体こんな感じ。
冷静で冷徹で怜悧な蒼衣少年が、途中からカリカリしていて「おいおい、冷静で頭脳派じゃなかったのか?これじゃあただの神経質なヒスじゃないかー」と思っていたら、実は冷静だけれども冷徹とは縁のない少年で、足手まといにしかならない織機を一生懸命かばいながら脱出する方法を模索しているうちに、なんと戦う少年になってしまっているのがすごくおかしい。戦う少年ですよ?少女のためにぼろぼろになりながら奮戦して、どうだと格好つけてみせる、ボーイミーツガールなのかこの話は、と突っ込みたくなるような少年ぶりですよ?ほほえましい。わたしは余り織機が好きじゃないんですけど、こういう少年と脱出行するなら織機以外は考えられないと思います。そこら辺はさすが絶妙の配置。
リセットとリミットの双子姉妹も素敵ィー。「柊」は何処かで出てきていたはずなのに思い出せない!降りてきただの回収しただの、なんだか物語の核心に近づく発言が多発していて、そろそろ詰めにかかっているのか、という印象を受けました。最初の頃に比べると、物語の中に見られる「ひねくれ」がだいぶ減少して、まっすぐな物語になってきているような気がします。一筋縄でいかない価値観のひねりが物語内で平然と炸裂してた初期のあの雰囲気が独特で好きだったんですが、これから王道路線に突入するのでしょうか。それはそれでとても見てみたい。
挟み込みチラシといえば、「ビートのディシプリン」ようやく最終話だそうですが!まだ完結してなかったのか……。何が原因だったのか自分でもわかりませんが、以前「本誌連載は終了した」と思い込んで一部友人にデマを飛ばしてしまったことをお詫びして訂正します。覚えてる限りでは一人にしか話してないはずなので、これから訂正してきます……うぐふぅ。
古橋秀之の例の三部作ってSFなんですね。知らなかった。ていうか読んでわからなかった。言うほどライトノベルを読んでいない罠。ライトノベルという一言で安直にも分類を放棄しているのかも。
直結神父を見てると「『ヘルシング』のアンデルセンはどれくらい聖人なのか……。しょっちゅうエイメンエイメン言ってるけど、やつの一回のエイメンは祝福単位に換算すると凄いことになってるんじゃ」という妄想で頭が一杯になります。
気合が入りすぎて中々感想を書き始められません。『ブライトライツ』の感想を書くのが怖い……。
近所というほど近所でもありませんが、7−11を発見したので早速7yで本を買いました。
『夏期休暇』長野まゆみ
『ブギーポップ・バウンディング ロスト・メビウス』上遠野浩平
『ハローワールド 青い記憶』涼風涼
直結神父を見てると「『ヘルシング』のアンデルセンはどれくらい聖人なのか……。しょっちゅうエイメンエイメン言ってるけど、やつの一回のエイメンは祝福単位に換算すると凄いことになってるんじゃ」という妄想で頭が一杯になります。
気合が入りすぎて中々感想を書き始められません。『ブライトライツ』の感想を書くのが怖い……。
近所というほど近所でもありませんが、7−11を発見したので早速7yで本を買いました。
『夏期休暇』長野まゆみ
『ブギーポップ・バウンディング ロスト・メビウス』上遠野浩平
『ハローワールド 青い記憶』涼風涼
『どしゃぶりのひに』『ふぶきのあした』
2005年4月12日 未分類作:木村裕一、絵:あべ弘士、講談社。
『どしゃぶりのひに』
「エサとともだちになったら飢え死にするだろ?」
「だからあいつだけでいいんです」
どちらも真理だ。1か0かの断絶以外は、境界線などただの連続でしかないという数学の話を思い出しました。漸近線とか連続体とか、そんな感じのこと。はっきりどちらかと定まっていないから、許されるか許されないかの境界に立ってしまうような状況に陥るのですね。
愛の逃避行!矢切の渡し!……よ、よろこべない。これがいわゆる恋愛小説で、人間の主人公二人が手に手を取って展開なら大喜びするんですが、部外者の口出しに始まり、野次馬の根性の汚さや、保身・欲望のために二匹を利用しようとするオオカミとヤギの群れにげんなり。そこまで徹底してリアリスティックでいいのか童話。シビアでいいのか童話。
しかしそれがいい。
「ひみつのともだち」であったことが仲間に知られてしまったメイとガブ。周囲は「お前利用されてんだよ」と二匹を責め立て、裏切り者じゃないことを証明したいなら、相手を騙して情報を聞き出して来いと迫る。
そして二匹はどしゃぶりの川岸で、もう戻らないことを覚悟する。
もう一度生きて会う約束をして、豪雨のさなかに河へ飛び込んだ。
続く。
(なんておそろしいところで「つづく」のか!)
『ふぶきのあした』
完結。
なんの本なのか途中でわからなくなりました。
ヤギとオオカミが倫理を踏み越える童話って何。
今までの土地を捨てて、新しい場所を探して山越えを決意する二匹の道中。相変わらず周囲にはひそひそと噂話をする動物達に加え、ガブは裏切り者としてオオカミの群れに追われることになりました。ヤギと四六時中一緒にいるオオカミは、ヤギに知られないようにこっそりとエサを取りにでかけます。ヤギは、そうしなければオオカミが生きていけないのを承知で、それでもこっそりと出かけていくオオカミが帰ってきたときに血の匂いをさせているの気に入らない。
根本的な問題がそこにあるのに、和解してしまった二匹は、おそらくお互い以外のなにもかもを切り捨ててしまったのではないかと思うんですよ。特にヤギ。触手が生えた人間並みに幸せになれなさそう……。
自分だけを助けようと嘘をついたガブに向かって「こんなことだろうと思った」「どうして嘘をつくんですか」「なんでも話し合えるのが友達だと思ったのに」と怒るメイのキレっぷりに心がときめく。穏やかで聡明で優しくて頑固かつ潔癖な(これってほんとにヤギについてる形容詞ですか)メイの性格が6冊目でものすごい輝きぶり。
どちらが生き残っても、どう生き残っても、二人でいられなければ同じこと。どちらかが失われても、二人が友達であったことは失われないというところまでたどりついてしまった二匹。命を懸けてもいいと思えることに出会えたら、それでもう充分に幸せだなんて欲がなさ過ぎると思います。
強欲になればハッピーエンドが待っているなら、いくらでも強欲になるべしなるべし!
過酷なラスト。
番外編があるらしいので、サイズをそろえることを考えつつ検討。
『どしゃぶりのひに』
「エサとともだちになったら飢え死にするだろ?」
「だからあいつだけでいいんです」
どちらも真理だ。1か0かの断絶以外は、境界線などただの連続でしかないという数学の話を思い出しました。漸近線とか連続体とか、そんな感じのこと。はっきりどちらかと定まっていないから、許されるか許されないかの境界に立ってしまうような状況に陥るのですね。
愛の逃避行!矢切の渡し!……よ、よろこべない。これがいわゆる恋愛小説で、人間の主人公二人が手に手を取って展開なら大喜びするんですが、部外者の口出しに始まり、野次馬の根性の汚さや、保身・欲望のために二匹を利用しようとするオオカミとヤギの群れにげんなり。そこまで徹底してリアリスティックでいいのか童話。シビアでいいのか童話。
しかしそれがいい。
「ひみつのともだち」であったことが仲間に知られてしまったメイとガブ。周囲は「お前利用されてんだよ」と二匹を責め立て、裏切り者じゃないことを証明したいなら、相手を騙して情報を聞き出して来いと迫る。
そして二匹はどしゃぶりの川岸で、もう戻らないことを覚悟する。
もう一度生きて会う約束をして、豪雨のさなかに河へ飛び込んだ。
続く。
(なんておそろしいところで「つづく」のか!)
『ふぶきのあした』
完結。
なんの本なのか途中でわからなくなりました。
ヤギとオオカミが倫理を踏み越える童話って何。
今までの土地を捨てて、新しい場所を探して山越えを決意する二匹の道中。相変わらず周囲にはひそひそと噂話をする動物達に加え、ガブは裏切り者としてオオカミの群れに追われることになりました。ヤギと四六時中一緒にいるオオカミは、ヤギに知られないようにこっそりとエサを取りにでかけます。ヤギは、そうしなければオオカミが生きていけないのを承知で、それでもこっそりと出かけていくオオカミが帰ってきたときに血の匂いをさせているの気に入らない。
根本的な問題がそこにあるのに、和解してしまった二匹は、おそらくお互い以外のなにもかもを切り捨ててしまったのではないかと思うんですよ。特にヤギ。触手が生えた人間並みに幸せになれなさそう……。
自分だけを助けようと嘘をついたガブに向かって「こんなことだろうと思った」「どうして嘘をつくんですか」「なんでも話し合えるのが友達だと思ったのに」と怒るメイのキレっぷりに心がときめく。穏やかで聡明で優しくて頑固かつ潔癖な(これってほんとにヤギについてる形容詞ですか)メイの性格が6冊目でものすごい輝きぶり。
どちらが生き残っても、どう生き残っても、二人でいられなければ同じこと。どちらかが失われても、二人が友達であったことは失われないというところまでたどりついてしまった二匹。命を懸けてもいいと思えることに出会えたら、それでもう充分に幸せだなんて欲がなさ過ぎると思います。
強欲になればハッピーエンドが待っているなら、いくらでも強欲になるべしなるべし!
過酷なラスト。
番外編があるらしいので、サイズをそろえることを考えつつ検討。
ドストエフスキー、江川卓訳、新潮文庫。
寝る前に15分くらいずつのペースでちまちま読んでいたら、頭の中でストーリーがブツ切れになって大変でした。名前と人間が一致しなくなったりさ。
下巻でも相変わらずステパン先生が物語の半分くらいを占めていて、群像劇というには焦点偏りすぎ、かといってニコライの物語というにはステパン先生が全面に出張りすぎ。ステパン先生とニコライの間に直接的なつながりが全くないので、一体どこに一本筋を見出したものやら、対比されているとも思いにくい展開が不安定感全開。ニコライが登場しているときの物語の求心力と、ステパン先生が登場してだらだらしているときの魅力のなさがもはや笑いを誘うありさまでした。これは、もう別収録のニコライ独白を中心にすえて書き直してくれよドストエフスキー。そうでなければ、もう少し登場人物の整理をして、迷わず群像劇と呼べるバランスにととのえてくれ。小粒ながらぴりりとした人物多いのにもったいない。
物語の核心として扱われる筈のエピソードが、作品としては未定稿、単行本上梓の際には削られたままというのには驚いた。文庫では独立して本文中に含めず、二つの版の異同を注によって示しながら収録しています。これがわかりにくいったらなく、いっそ両方載せればいいのにと心底思いました。括弧多用がとんでもなく見づらかったので、もう少し見やすいやり方があったのではないかと不満が残ります。
キリーロフとシャートフとピョートルが印象深かった。特にシャートフ・ピョートルは、ニコライに思い入れが激しすぎてびっくりさせられるシーンあり。君ら何をそんなに思いつめてあこがれているのさ。思想のためにと言いながら明らかにニコライ個人に心惹かれていて、それはニコライがあんな決断を下したのと全くの無関係とは言えないんじゃないか、と横から檄文のビラ丸めた棒で突っ込みたい。
先生と夫人はものすごいラブロマンスでびっくりだ。20年かけて無駄にすれ違いロマンスなんて気合入りすぎ。
記述者兼語り手の「私」の黒子度合いの高さに感心した。
訳の不味さにも震撼した。
寝る前に15分くらいずつのペースでちまちま読んでいたら、頭の中でストーリーがブツ切れになって大変でした。名前と人間が一致しなくなったりさ。
下巻でも相変わらずステパン先生が物語の半分くらいを占めていて、群像劇というには焦点偏りすぎ、かといってニコライの物語というにはステパン先生が全面に出張りすぎ。ステパン先生とニコライの間に直接的なつながりが全くないので、一体どこに一本筋を見出したものやら、対比されているとも思いにくい展開が不安定感全開。ニコライが登場しているときの物語の求心力と、ステパン先生が登場してだらだらしているときの魅力のなさがもはや笑いを誘うありさまでした。これは、もう別収録のニコライ独白を中心にすえて書き直してくれよドストエフスキー。そうでなければ、もう少し登場人物の整理をして、迷わず群像劇と呼べるバランスにととのえてくれ。小粒ながらぴりりとした人物多いのにもったいない。
物語の核心として扱われる筈のエピソードが、作品としては未定稿、単行本上梓の際には削られたままというのには驚いた。文庫では独立して本文中に含めず、二つの版の異同を注によって示しながら収録しています。これがわかりにくいったらなく、いっそ両方載せればいいのにと心底思いました。括弧多用がとんでもなく見づらかったので、もう少し見やすいやり方があったのではないかと不満が残ります。
キリーロフとシャートフとピョートルが印象深かった。特にシャートフ・ピョートルは、ニコライに思い入れが激しすぎてびっくりさせられるシーンあり。君ら何をそんなに思いつめてあこがれているのさ。思想のためにと言いながら明らかにニコライ個人に心惹かれていて、それはニコライがあんな決断を下したのと全くの無関係とは言えないんじゃないか、と横から檄文のビラ丸めた棒で突っ込みたい。
先生と夫人はものすごいラブロマンスでびっくりだ。20年かけて無駄にすれ違いロマンスなんて気合入りすぎ。
記述者兼語り手の「私」の黒子度合いの高さに感心した。
訳の不味さにも震撼した。
『くものきれまに』『きりのなかで』
2005年4月10日 未分類講談社、作:木村裕一、絵:あべ弘士。
『くものきれまに』
ヤギとオオカミの前途多難な友情の物語、三冊目。
友達の友達は、友達……?
現実でも割と日常茶飯事だけれど、これが上手く捌けたら苦労しないというような難問を遠慮なく突きつけてくるシビアさにときめき。事情を知らない部外者は、善意で場を混乱させることが多いというお約束に加え、ヤギとオオカミの間には種族の差という越え難い一線が!
ラブコメなんかでよく見る「いい雰囲気になる→何も知らない友人がここぞというタイミングで邪魔に入る→繰り返し」の展開がはまりすぎてて笑えます。善意の第三者である、メイの友達タプの無神経で正当な発言に、我慢の限界を試されるガブがやけに可愛らしい。泣くなよ。
「善意の第三者に面と向かって罵られる→我慢する→切れる→友達は第三者を庇う→涙ッシュ」
王道王道!
その後の和解まで含めて王道で、おなか一杯楽しみました。うっかり本音を漏らして、慌ててそれは聞き違いだと苦しい訂正を入れる我慢強いオオカミが超キュート。絵でもやけに可愛らしく描かれていますね。
友人の勘違い目撃談が油断ならないラスト。世の中何処でもシビアな現実が待ってるぜ。
『きりのなかで』
ちっさく描かれてるメイがむやみにキュート!岩が転がってきたときの表情が「あわー」って感じで緊迫感があるんだかないんだか(笑)。
友達を助けるために、仲間を裏切ったり、友達の誤解を覚悟で悪口を言わなければいけなかったり、わかっているけど厳しい状況が続くガブ頑張れ超頑張れ。自分より強くて目上のオオカミに逆らうことになってもメイを助けようとするガブの勇気。
と、思いきや、帯の「ダ・ヴィンチ」編集長の言葉が、
「それもまた、恥じることない愛だと思うから。」
って、いつのまに友情から愛にシフトしたの?!
ならば褒め称えられるべきは友情ではなく愛なのかそうなのか。メイの優しさと聡明さは確かに愛に値します。けどそうか、愛なのか。大変だな二人(二匹)とも。
ハンカチなしでは読めない5、6冊目に続く最後の小休止。
『くものきれまに』
ヤギとオオカミの前途多難な友情の物語、三冊目。
友達の友達は、友達……?
現実でも割と日常茶飯事だけれど、これが上手く捌けたら苦労しないというような難問を遠慮なく突きつけてくるシビアさにときめき。事情を知らない部外者は、善意で場を混乱させることが多いというお約束に加え、ヤギとオオカミの間には種族の差という越え難い一線が!
ラブコメなんかでよく見る「いい雰囲気になる→何も知らない友人がここぞというタイミングで邪魔に入る→繰り返し」の展開がはまりすぎてて笑えます。善意の第三者である、メイの友達タプの無神経で正当な発言に、我慢の限界を試されるガブがやけに可愛らしい。泣くなよ。
「善意の第三者に面と向かって罵られる→我慢する→切れる→友達は第三者を庇う→涙ッシュ」
王道王道!
その後の和解まで含めて王道で、おなか一杯楽しみました。うっかり本音を漏らして、慌ててそれは聞き違いだと苦しい訂正を入れる我慢強いオオカミが超キュート。絵でもやけに可愛らしく描かれていますね。
友人の勘違い目撃談が油断ならないラスト。世の中何処でもシビアな現実が待ってるぜ。
『きりのなかで』
ちっさく描かれてるメイがむやみにキュート!岩が転がってきたときの表情が「あわー」って感じで緊迫感があるんだかないんだか(笑)。
友達を助けるために、仲間を裏切ったり、友達の誤解を覚悟で悪口を言わなければいけなかったり、わかっているけど厳しい状況が続くガブ頑張れ超頑張れ。自分より強くて目上のオオカミに逆らうことになってもメイを助けようとするガブの勇気。
と、思いきや、帯の「ダ・ヴィンチ」編集長の言葉が、
「それもまた、恥じることない愛だと思うから。」
って、いつのまに友情から愛にシフトしたの?!
ならば褒め称えられるべきは友情ではなく愛なのかそうなのか。メイの優しさと聡明さは確かに愛に値します。けどそうか、愛なのか。大変だな二人(二匹)とも。
ハンカチなしでは読めない5、6冊目に続く最後の小休止。