フジモトマサル、中公文庫。

「てのひら絵本」という中々に素敵シリーズのうちの一冊。やるな中央公論新社。
ちょっとlongなgoodルームです(「長め」を英語に出来ない自分の語学力の低さを公表してみる)。

絵本だけど、これ子供が読んで楽しいかな。大人向けブラックな感性がそこはかとなくただよう。

ライオン君は自分の才能について激しい勘違いをしているようなので、同居人は指摘してあげるといいと思います。
アンティーク雑貨にこだわりのある男。
同居人のオオカミをナチュラルに尻にしく赤頭巾。
近所に引っ越してきたペンギンさんとお近づきになれて大興奮な白熊。

なんかこう、人間味溢れる人間関係ですなあ。

ところで羊さん、水害直撃地出身の人間としては、それあんまり笑えないですよ、と無粋な萎えかたをしてみる。現実のできごとのせいで虚構を楽しめないって不幸な話だなあ。あああ。
恩田陸、新潮文庫。

ハードカバーで借りてきて、一回読んでいるので詳しい感想はそのときの日記で。
「源氏物語って〜」の台詞にようやく得心がいったのです。遅い。しかし何度読んでもココロコは『キノ』だなあ。可愛いからなんでもいいんですけど。「茶色の小壜」は確か『光の帝国』と繋がってるよ、という噂を小耳に挟んでいたのでした。確かめようにもダンボールの箱を崩して探さないと見つけられないよ……常世物語は続編が出ましたね。
「茶色の小壜」は記念に何をもらっていったのだろう……また謎が増えました。
そして恩田作品は押し切られ巻き込まれ型ヒロインが素晴らしく多いね!かなり気が強い女性でも、押しには弱かったりするんだ。それが天敵ってことなのかしらん。

で。

本屋大賞という、偉い人からもらった賞でなく、読者からの愛され賞をもらった作家の文庫、それも受賞作の前日譚を収録した文庫に、こんな感じの悪い解説つけて売る必要が何処にあったのさ。
「はあはあそうですか、評論家様は実に高尚なご趣味をお持ちですね!」って面と向かって言ってやりたい。
なんだかなあ、もう、げんなりしました。「本を好きで読む」という行為を、その素人の勝手気ままな楽しみ方を肯定している作家の解説に
「ネタバレなんてくだらないことで騒いでいる奴らは浅はかで馬鹿だ」
ほぼ原文まんまでこんな他人の「楽しみ方」を否定しちゃう評論家にページを与えるなんて何を考えてるんだ編集部。ネタバレしたって楽しめる、ということを言いたいのはわかるけれども、「ものはいいよう」って言葉があるのを知らないんですかね。しかもなんだか微妙に矛盾してるし。
解説1ページ目は糊付け永久封印を推奨。

追記。
感想の検索かけてたら当の評論家様のサイトを発見。うっわー、感じ悪いどころの騒ぎじゃないね!恩田作品についての評は別にいいですが、それ以外の無駄に自意識過剰な(以下略)
タイプミスで出た「示威意識過剰」を訂正せずにそのまま使ってもあながち間違いとはいえないんじゃないかという気になってきます。
作品の評と他人の嗜好を罵倒することは別ですよ。まったく。むかっ腹立つのでリンクしません。
司馬遼太郎、新潮文庫。著者と体裁をうっかり書き落としていました。

下巻に入ってから、あまりに三成がアレなので読み進むのが困難でした。有能であることと天下を取る器量であることって実はそれほど関係ないのね。
そして今気付いたんですが、何も考えずに一発変換に従うと「光成」になってしまうのですね。上中巻の感想中で誤変換している自信があります。石田光成って誰だろう。
大将がおなか壊して雨の中うろうろって、おいおい。脱力することこの上なし。自分の身上の半分も使って召抱えた島左近を役立ててない点についても突っ込みたい。三成の性格の悪さは、あくまで子供の脊髄反射的なもので、家康のように人間が悪いのと違うのが敗因ですかしら。しかし子供の癇癪みたいなどうでもいい性格の問題で関ヶ原敗れ去りました、ってかなり情けないのでは。

大谷刑部と黒田如水がとにかく男前。黒田親父に比べると、いくら有能でも長政は二代目の優秀さしかないのだなあ、と天下に対する野心のなさにびっくりする。黒田親父は大人気ないわ天下取れそうだわ、悠々として人が悪い割りに可愛げに溢れてて素敵。
そして浅井も黒田も浅野も「長政」で混乱したわ!ええい、わたしの衰えた記憶力に止めを刺すような真似をすなー!

福島正則っておばかさんですね。途中から加藤清正が姿を見せなくなっていた。そういえば何処に行ったのかしら。安国寺も陣を張ってから立ち消えの謎。

伝令が走らないと、何が起こっているのか把握できない規模の戦闘って想像もつかない。家康の側についているえり抜き伝令「旗に五」の人たちがカッコいいなあ。今よりも情報の量がはるかに少なかった時代の、情報を制するものは勝負を制する関ヶ原。伝令が行って帰ってくるまでの間に全滅、なんていう事態もあったと思うと、先を見る目がなきゃ、いくさなんてやってられないんじゃないかしらん。関ヶ原の勝敗が九州に届くまで7日間。それで「速い」っていうんだから推して知れってことなんでしょうね。

この関ヶ原での痛恨を300年間持ち越して幕末に立ち上がる九州の藩を見ていると、歴史の連綿とした流れというものを実感します。

つわものどもがゆめのあとー。

購入日記。

2005年6月28日 未分類
『図書室の海』『長めのいい部屋』を注文。
『蟲師』の6巻をゲット。

『バールのようなもの』が絶版または重版未定でorz
来月からクトゥルフはじめます。

欲しいものメモ
皆川博子、森奈津子、小林泰三、牧野修、米原万里。

海外作品ではコニー・ウィリス、コード・ウェイナー・スミスがやたら気になります。

山田風太郎は全集が文庫で出たりしないのかしら。
箇条書き感想。

天下に知れた文藻をもって無礼極まる手紙を書き、家康に「こんな無礼な手紙見たことない!」と言わしめる直江山城守、大人気なさすぎ。

家康が豊臣に反旗を翻すタイミングの巧みさ。忠臣を装って時機を待ち、少しずつ我田引水、そしてここぞと勝負に出るまでの時流の読みがもし下手だったら、徳川家はなかったのだろうなあと歴史の「もし」を考えます。そして本多根性悪。

渡辺半蔵男前。暗酷似エ系は一発変換すると不幸。増田と長束の能吏ではあるけれど、天下を決める重大事となるとまったく判断が出来ない無能さがやけに目に付く。官僚として優秀であってもなんの役にも立ってない。そして福島加藤も同じく、武者としては優秀でも、器量がまったく足りていない。一言で言えば「お前ら馬鹿だろう」。うーん、無能が多い。そりゃ家康が天下を取るわけだよね、ととても納得。

あれっ、小早川秀秋ってこんな経歴だったっけ?

黒田如水と真田昌幸の親父組が涙が出るほどカッコいい。大人気なさすぎだけど、それがいい。小松ノ方の応対もカッコいい。

小山軍議のとき、家康視点から堀尾息子視点へ動いてく流れの巧みさに唸った。視点が人間を転々としていくとき、場面場面の繋がりかたが流れるよう。

原哲夫絵で「ぅおのれ光成ィ!」と巻き舌で呪詛する福島正則がしきりと脳裏をよぎるんですが、元ネタが思い出せません。

つむじまがりの治部少輔〜♪
1600年関ヶ原。歴史の教科書にも載っている、あの戦いを司馬遼太郎が石田光成を中心に据えて書いたもの。

この説明だけで大体のところが想像できた人は楽しめる人。「なんで関ヶ原ってタイトルなのに物語開始時点で秀吉存命中なのー?!」というひとはまだまだ甘い人。なんの違和感もなく読み進めて、さて感想をどう書いたものかしら、と悩んでから「おお、実戦としての関ヶ原で終わらないのが司馬遼太郎節」と変な喜び方ををしたのがわたし。
読んでて当然というのがファンの態度だろうなーと申し訳なくなりこっそり隅っこの方へ退避して身を縮めつつ感想。まだ上巻だけしか読んでないので目に付いたところから。

石田光成と明智光秀が混ざってた。

最近、人間を混同しすぎです。記憶の中で、気の利いた茶の出し方をしたの小坊主が何故か明智光秀になっていました。それじゃ織田信長が拾ったのかい。織田信長が、鷹狩中に立ち寄った寺で茶を出した小坊主を気に入って連れて帰って反逆されて自害って、捏造にも程があると思いました。エピソードに齟齬がある時点でおかしいと気付け。
そして島左近は外見イメージが問答無用で原哲夫変換されてました。芳春院様も多分そう。
内容と関係ない感想が多いな今回。
で、最初の方でも言っていますが、やはり秀吉存命中から既に「関ヶ原」ははじまっていたという司馬遼太郎節が「アツイ」です。暗闘だって熱闘だい。豊臣が安定を失ったときから既に戦いは始まっている。潔癖憎まれっ子石田光成VS腹黒演技巧者徳川家康。他多数。主だった面子より、はしっこにちょこっと顔を出す程度の人物の方に男前が多いのはどうしてだろう。というか、主だった面子は根性悪いのばっかりだ。
懐かしい名前が多数登場するので、ついつい独り言で「利家たん久しぶりー」と恐ろしい愛称で呼んでしまい、はっと我に返るのを何度繰り返したか……「利家たん」なんてまだ公表できる部類です。宇喜多なんで「うきたん」って呼んでるしね!
昔は司馬遼太郎の本を読むたび「骨しか残っていないようなすかすか間が多い。なのになんでか長い話を書く人だ」と思っていたのですが、今読むと骨が太すぎて間がないと咀嚼しきれないことがよくわかります。一行に凝縮された情報量に瞠目せよー。これでみっしり肉までつけられたら、どんな長さになるのかと。そんな重たいもん(一部の趣味の人を除いて)誰が喜ぶのか。
そのうえ忠臣謀臣陪臣奸臣佞臣と多種多様な家臣の表現に「家康の人数が」「善美をつくし」と最近あまり聞かない素敵単語が続出するので楽しみもひとしお。

「この物語をどうやってはじめたいらいいか」と作者本人が地の文で言い出し、一文目に「いま、憶いだしている」。
作者の記憶によって語られていた歴史のエピソードが、いつの間にか主体となって語りはじめているこの大胆な地続きっぷりをどう説明したものかと今悩んでます。外側と内側が切り離されているのがフィクションのお約束みたいなものじゃなかったのかしらー。
視点と時間軸が現代から過去へとシフトするさまをとらまえて説明したかったのですが挫折。構造枠も一緒にずれてるはずなんだけど、これがもしや『薔薇の名前』訳者が触れていた問題の一部だったりしないかしらん。
そういえば『薔薇の名前』を読んでいたときに、特殊な名詞ならともかく、形容詞や一般的な名詞で知らない単語がごろごろ出てくるのが久々の体験で嬉しく、広辞苑を片手に読んでいたのですが、その時に遭遇した言葉。

渾天儀

見たことのある字面なのに、それがなんであったのかどうしても思い出せず、こんてんぎこんてんぎ、と広辞苑を捲ろうとしたときのことです。
ふと、思い出せないけど適当に想像してみよう「こんてんぎ」。あってたら自分グッジョブ。と、できごころで想像したのが運のつき、何故か真っ先に浮かんだ単語が

ふんどし

であったために、賢明にして有徳なシルウェステル二世が写本一冊のために貴重極まりない「ふんどし」を手放してました。しかも「ただしそれはあくまで『ふんどし』であって己の貞節ではない」というどこのブルセラ少女だよオイという状況になっていました。
「渾天儀」が「地球儀」の親戚であることは字面で一目瞭然なのに、何を考えていたのかしら。
『邪魅』が出るって〜本当ですか〜♪

『陰摩羅鬼』のとき、延期延期で首が長くなりすぎたことは記憶に新しい。
バーネット著、龍口直太郎訳、新潮文庫。

フランシス・エリザ・ホジスン・バーネット、がどうもフルネームらしいです。長い。そして訳者は「たつのくちなおたろう」。ちょっと読めない。原題は「The Secret Garden」。秘密の「花」園と最初に訳したひとは素晴らしいセンスの持ち主だと思います。原題と日本語タイトル、どっちも好き。
両親を亡くし、伯父に引き取られた少女メアリー。インドにいる頃はやせっぽっちで顔色が悪く、根性の悪いつむじ曲がりでしたが、ミッセルスウェイトの伯父の屋敷で暮らすうちに心身ともに快活な健やかな少女に生まれ変わっていきます。彼女は屋敷の敷地内に、十年間秘密にされてきた花園と、彼女に知らされていなかった病弱な従兄弟を見つけ出し、

以下すばらしい春の訪れ。

この厚さで児童文学ってよく言い切ったなあ。好んで鬱展開の物語ばかりを追いかけて、そろそろハッピーエンドが恋しくなってきたところに、文句のつけようのない大団円をありがとう。さりげなくヒロインが極上ツンデレで萌えた。『ナインストーリーズ』のエズミといい勝負でもえー。
と、わたしがツンデレに目を奪われている間に、両脇に健康野外少年と病弱若様(美少年)が控えてます。なんてロマンス。
そして何故ヨークシャー訛りは謎の東北弁ですか。ヨークシャーは本当に首都に対して東北にあるんですか。これは差別だ、今すぐ撤回し謝罪するこt(以下略)。謝罪や賠償はともかく、どうして翻訳ものでは訛り=謎東北弁なんでしょう。しかもメディアを問わない謎翻訳。アメリカ南部の黒人の喋りも東北弁で表現されてたりするし。「アメリカで標準語に近い言葉を喋る首都在住者」にとって、それは本当に日本標準語を喋る人間にとっての東北弁に当たるのか。百人くらいに聞いて欲しい。東北に近い生まれだと、どうしても気になって訛り部分が上手く読めないですよ……。男女の別なく(更に言うなら多分上下もないぞこれ)使ってるのがものすごい座り悪い。関西とか九州とかじゃ駄目なんですかね?
日の出とともに起き出して、夕暮れまで働いて、満足に食事をとって、ちょっとおやつ食べて、趣味も手放さずに暮らすのが理想。でも作中内で主人公達があの生活を満喫しているのは「成長することが義務」な子供で「食事を用意してもらえる」身分だからなんだろうなーとぼやく。
カバー折り返しの映画の写真、メアリーの服が尋常でなく可愛い。
大団円で気分爽快。達成感満喫。
やけに素朴な信仰が気になる。
つむじまがりのメアリー嬢〜♪

雑記。

2005年6月17日 未分類
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美しくも好ましいサイトさまやブログさまからのリンクは、嬉しいだけになやましい現状を力技で打破。遅いよ。なんせ引きこもりですから、と言い訳しつつ、上の表示が空白文字開けによる強調みたいに見えて嫌だなあと思っています。
塩野七生やエーコを読んだあとに『ジョジョ〜』の文庫版を読むと、いつもより更に浪漫を感じます。関連性のある本をつなげて読んでいく愉しみは、この辺にあるのでしょうなあ。
『フーコーの振り子』を文庫で購入。通販だったので、手にしたときに「ぶあつっ!」と感動しました。いい厚さしてます。でも、上巻がぴかぴかなのに、下巻が日焼けしてて「焼けてるのはいいですが、揃えてくださいよ」と思いました。
一度感想を書いたことのある本なのですが、後から後から言いたいことが湧いてくるので書いてしまいます。

『探偵伯爵と僕』森博嗣著、講談社ミステリーランド。
ラスト、伯爵が「ただの大人でしかない」ことにがっくりしたわけです。ここでがっくりしたのは、きっと新太にえらい感情移入していたのと、自分が子供の頃身近にいて欲しかった理想の大人像がひっくり返されたせい。でも、この「がっくり」がなければいけない話だと、つくづくと思うのです。この伯爵のイメージ転覆があるからこそ、新太が(ネタバレ)であったことが余計に響いてくるわけで。現実に対する防衛というのは、強固であるほどかなしい。それほどまでに傷つける何かと出会ってしまったという事実が、壁が補強されればされるほど、かえって際立ってしまう。
新太がどうしてこの事件を物語に仕立てたか、という理由が一番衝撃でした。読んだ当初はあまりにぎくりとした後ろめたいような気分が強くて、感想に書けずに省略してしまいましたもの。時間がたって、ネット上で他のかたの書いた感想を見て、ようやく口にしてもいいかなと思えるようになりました。だってあの理由は身に覚えがありすぎる。(ネタバレ)だから、という理由で殺されるぐらいなら、誰でも良かったといわれる方がまだ公正だとすら感じます。殺されるのは全く御免ですが。あの気もちは、男性には理解できないだろうと決めてかかったいたところへ森博嗣。見直したというかもう「御見それしました」状態。へへー、と平身低頭です。
(ネタバレ)の気もちがわかる、それだけでなく子供の気持ちもわかる森博嗣。新太の理屈は、単純に論理的なだけに「子供のへりくつ」なんですね。外部からの影響を考えに入れてないところが幼稚。それじゃ思考実験だよ、というような風味をたたえていて、自分の子供の頃も似たようなものじゃなかったかなあとちょっと恥ずかしい。ザ・ものしらず。でも、新太が理論的に美しいのも当然で、事件を物語として再構成するだけの頭脳の持ち主なんですよね。(ネタバレ)には頭良い子の不幸みたいな気配もなくはない。
素敵大人と、素敵子供の夏休みの冒険が、あらかじめ失われていると思うと、かなしくなってしまうのです。
いつまで感想を引きずって「その作品について」考え続けるかというのは、その作品がどれほど心揺さぶったかと比例していますね。
森博嗣初心者に勧めるに打ってつけ。

なにか他にも書こうと思ったことがあった気がしますが、まあ思い出したときに書き加えていけばいいか。気が楽でいいです。
石田衣良著、集英社文庫。

初の短編集、初の恋愛作品集。短編10本を収録。
タイトと帯だけ見るとさよなら10連発のように見えてしまいますが、タイトル通りなのは表題作「スローグッドバイ」だけでした。
「フリフリ」のラストが良かった。なんて友達甲斐のない男!
「ハートレス」の「気もち悪い」が回収されてなくて気になります。きっとその後の時間軸の中で回収されているだろうからそれはいいんですが、「線のよろこび」はこの後が怖いんじゃ……。

「ちょっと甘口でもいいから、読み終わったあとで心地よい酔いを残すようなラブストーリーにしたいな(あとがきより)」
甘口。ラブストーリー。癒し系恋愛小説。そんな感じ。
細部の描写の冴えは相変わらず。
米原万里著、新潮文庫。

1ダースが12なのは、我々の世界に限ったことなのです。魔女の世界では1ダースは13。異文化同士の間では、何が常識で何が非常識かなんて相対的なものでしかない。異文化の激突するその現場で、同時通訳者という橋渡し役をなりわいとする著者が書いた13章。
言葉は文化なのだから、言葉を理解するということは、文化を理解するということに等しい。
何が常識であるか、というのは前後の文脈に依存する、文脈というのは状況、文化といっても差し支えない。
我々は、文脈から、判断に関して多大な制約を受けている。
当たり前のことをつらつら書いてみました。
面白かったことは面白かったけれど、微妙な感想しか浮かびません。タイトルが良すぎたので、それに釣られて期待値も高くなりすぎたのかもしれません。
何故下ネタの話しとなると、みんななれほど嬉しそうなのか、と真面目に考察してる辺りは飲食禁止。公共の場でも読んではいけません。うっかりしてると色々壊滅的なことになります。

山菜……。
前回感想が、字数制限ぎりぎりまでいったことに驚き怯えてしまい、書き落としたこと。
「モーロ事件」「新前衛派の文学的試練」がさっぱりわかりませんでした。これがわからないと楽しめない何がそこにあるんでしょう。
ロジャー・ベーコンとフランシス・ベーコンを素で間違えてました。というか、どちらとも判別がつかないほど混ざってしまっていた様子。「大学追放されたり、ぶちこまれたり、なんたら機関書いたり、腐敗防止実験のために真冬に戸外でにわとりの腹に雪詰め込んで、その時に風邪ひいたのが原因でお亡くなりになったりした人ってどっちだっけ?」……ベーコン表記にしておいて助かった。

先日家主が買ってきたブックカバーが、サイズがぎりぎり、折り返し定位置という、全く使えないシロモノであることが発覚。泣ける。
ウンベルト・エーコ著、河島英昭訳、東京創元社。

読んでも読んでも終わらないと思っていたけれど、下巻は意外と後半駆け足っぽい雰囲気で、それほど長いわけでもなかったのがちょっと残念。
一冊の書物をめぐって繰り広げられる殺人事件やら暗闘をメインに読みました。僧房で怪しい草を齧りながらインナースペースにひたりまくって推理するウィリアム師匠最高。文書館と迷宮の仕組みが冒険活劇のような気配をかもしだしていて最高。あれも最高これも最高、そして何が最高だったかというと、

んもうこの偏執狂!

と含み笑いしながら肩をどついてやりたいウンベルト・エーコの精緻なこだわりと教養。非凡かつ偏ってあるものをこよなく愛するタイプの本好きにはたまりません。偏執と耽美は紙一重で、みじんこは偏執と耽美こそを愛しております。
もう一回言っとこう。

最高だこの偏執狂!

文書館内部の地図が、物語中で語り明かされるくだりがあんまりにも偏執的な精密さをうかがわせて、思わず踊ってしまいました。周りに人がいなかったのがせめてもの救い。ものすごい怪しい動きをしていた自信があります。その怪しさと踊っていた時間の長さこそがエーコの偉大な本の素晴らしさを直裁に語っていたのですが、それを公表する度胸はありません頑張って感想書きます。片っ端から思いつく限りいってみよう。
べレンガーリオ。タッローニとダ・アルンデルが別人であるということに一瞬気付かず、なんで再登場してるの?!と目をむきました。タッローニは出てくるだけなので数に入れなくても大丈夫です。アルンデルのほうは、その悪癖が上巻でおおむね了解されますが、下巻ではそれ以上に悪趣味なので笑いが止まりません。アデルモはともかく(ネタバレ)はどうかと思うよ。そしてアデルモに対してはともかく、(ネタバレ)に対してはどっちがどうだったのかちょっぴり気になるようなならないような。
レミージョ@厨房係が大活躍で意外。と、言うか会談に絡んだ宗派皇帝教皇の争いはいまいちよくわからなかった。歴史とキリスト教の話はほとんど理解が及ばなかったので、この本の楽しみの全体の三分の一は理解できなかったということに。ああ残念。いずれリベンジの予定。異端審問官のベルナールはたいそう熱いですが、登場してからまもなく退場してしまうので、見せ場があんまりなかったです。ああいうひとが歴史の大舞台に登場すると、すごいことになるんだろうなーと思いながら読んでました。実際、教皇と皇帝の対立ですごいことになってる時代設定。
文書館に関しては、もう何も言うまい。ラストでは(ネタバレ)してしまうし、あの楽しさは読んだ人だけの特権ですよ。設計した人は知識階級の最高位にいたんでしょう。建築に従事した人たちは、終わってから殺されたりしなかったと余計なことまで想像できる文書館。神の威光、知識の泉、悪徳の巣。
アッボーネ僧院長の態度も、俗物振りが際立って素晴らしかった。晩餐の料理自慢にはじまり、宝石大好き権力大好き体面一大事の超保守派。なんというか(ネタバレ)まで予想通りで爆笑してしまいました。確かにああいうタイプなら(ネタバレ)に(ネタバレ)されて(ネタバレ)がお似合いですわー。ヴェナンツィオとペアで必須。
で、本命の犯人とウィリアムとアドソ。師匠があまりに師匠で、アドソが純真に慕いすぎてて泣ける。もう君ら師弟どころか親子でいいよ!揃って間抜けな失敗をして、お互いに罵りあったりころがりまわったりと、心あたたまる師弟コンビでした。特にラストのアドソの戦慄すべき問いに、答えられないと返したウィリアムの思いやりが切ないです。胸の中には既に確固たる答えがあるのに、論理的に正しいことであれば何者も恐れない師匠が答えなかった、というのがいいなあ。弟子の人生を思いやる師匠の姿が、二人の絆の強さを感じさせます。
真犯人は予想通り過ぎて脱力。先に(ネタバレ)を読んで(ネタバレ)していたのが敗因。(ネタバレ)配置からラスト(ネタバレ)までほぼおんなじだー!文書館での真犯人とウィリアムの切り結ぶ場面は息詰る緊迫感とカッコよさ。アドソが他のものなんて比べ物にならないと思うだけあります。
残念だったのは、読み手であるわたしのスペックが低すぎるのが原因で読み取れないたのしみが多すぎたこと(わたしにとっての主要な物語はキリスト教の歴史関係・連続殺人事件・記号論のみっつ)、特にキリスト教系に弱いばかりに、ぼへらーと無能に読み流した喜びがどれだけあるのでしょう。アドソが夢に見た「キュプリアーヌスの饗宴」は、厳格な一部の人が怒り出しかねないという印象を受けたんですが、詳しい人が読めばまた印象が違うのだろうなーと。ファラオが登場するたびに、なんでだなんでだと自問自答、それを律儀に3セット繰り返すアドソに爆笑しました。同じギャグは三回までだ!繰り返しネタも三度が限界だって!で、聖書のメジャーな人物がせっせと宴会で貪り食っている最中に、突然四十日間断食をはじめるキリスト。エーコお茶目すぎ。
イタリア語の原文には、ラテン語、ギリシア語、中高ドイツ語、サルヴァトーレの混沌とした言葉、など多数の言語が使用されているとのことで、これを原文で読んだイタリア人がうらやましいです。日本語では、カタカナで書かれている部分が「イタリア語以外の言語」なのですが、日本語の中でカタカナ表記という手法と、違う言語での記述がそのまま残っているのとでは、印象が全く違うんじゃないかと思うのです。ラテン語を読めないにしても、それらが身近なキリスト教圏のイタリア人と、キリスト教には縁のない日本語ネイティブの感想じゃ天と地ほどの差がありそう。ああもったいないなあ。
あとがきで、エーコの翻訳用メモの話をほのめかしては語らない訳者にちょっぴり怒りを覚えたのはわたしだけではないでしょう。語りえないことについては沈黙せよー!
「薔薇」がなんであったのか意見が分かれているみたいです。わたしは「僧院(あるいは文書館)」か「神」のいずれかだと思います。
地味に。
『魔女の1ダース』米原万里
『スローグッドバイ』石田衣良
『秘密の花園』バーネット
眼鏡も修理完了で、明日からは眼鏡読書生活再開。
ところで『秘密の花園』ってえらくエロいタイトルだと思いませんか。

発掘発掘。

2005年6月8日 未分類
司馬遼太郎の『関ヶ原』『項羽と劉邦』の文庫が、家主の荷物から発見されました。
わたし大喜び。
眼鏡も明日修理の予定なので、今月後半は読書に励みたいと思います。
ウンベルト・エーコ著、河島英昭訳、東京創元社。

中世イタリアの修道院で起こる、連続殺人事件。それを解決するべく修道士と弟子コンビが大活躍(の予定)。

うははは、なんて面白いんでしょう。笑いが止まりません。当時世界最高峰を誇ったとまで言われる文書館を持つ、山腹の僧院。世俗から隔離された筈のそこで、立ち入りを禁じられた文書館の塔から一人の僧が転落死したことから謎の連続死がはじまる。ロジャー・ベーコンを信奉するウィリアム修道士は、院長から依頼されて事件の謎を解くべく、弟子のアドソ(のちにこの物語の語り手となる)を連れて、事件の根幹にかかわる謎が眠る文書館へと足を踏み入れるが、そこはなんと迷宮でした!(じゃじゃーん!)。手がかりは、最初の僧が持っていた本一冊、しかしその本も何者かに持ち去られ、文書館の謎の鍵を持つ人間が片っ端から死んでるっぽい展開、三人目の死体が発見されたところで下巻に続く。
ウンベルト・エーコと、ミシェル・フーコーを混同していたことが大変申し訳なくも情けなくなる次第です。「むやみに分厚い本を書いた学者」くらいの認識しかなかったことがもろバレですね!『文体練習』欲しい、といいながら『フーコーの振り子』が念頭になかったこともついでに暴露しておきます。中世イタリア、トマス・アクィナスを大学で専攻し、記号学者として世界的に有名なウンベルト・エーコが、その頭脳の精髄を見せ付けてくれます。うあー面白いー。エンターテイメントの極みでありながら、同時にアホほど知性に満ち溢れた、他の追随を許さない一冊。
記号論にからんだ帰納・演繹法による推理を「得意げに」披露する師匠。師匠を尊敬し「流石です師匠!」とあとをちょこちょこくっついてくる弟子。宝石の美しさは天上の美と善を教えてくれる、と主張する俗物根性丸出し院長。閉じられた僧院で怪しい情熱の虜となり、職権濫用甚だしい文書館長補佐。何処のものとも知れぬ、また何処のものでもありうる奇妙な言葉を喋る正体不明の男。昼の顔と夜の顔を持つ荘重華麗な僧院。そして限られた者以外の立ち入りを拒む、迷宮を備えた文書館。ラテン語で会話していた知識階級を描くなんて、と戦いていたのも束の間、登場人物はいかにも人間らしい姿で、おのおの勝手な欲望に正直に突っ走る姿がとても可愛らしい。最初のうちこそ、慣れない片仮名名前、それもラテン語読みで「誰これ?誰これ?」という状態になってましたが、それぞれ行動を起こす段になると人間がはっきりしてきて登場人物紹介も必要ありませんでした。各巻に挟まってた地図と登場人物紹介カードにはびっくりしました。素敵な配慮を有難う創元社。
冒頭に、メルクのアドソの手記を入手し、発表に至るまでのいきさつが置いてあります。この「私」こそが作者のウンベルト・エーコその人であることに気付かず、間抜けな読みをしてしまいました。「手記だ、当然のことながら」という一文をどーんと載せておいて、これこれこういういきさつで入手した手記が「薔薇の名前」の元ですよ、ということらしいのですが、そのメタっぷりにもときめく。手記と手記に付された原注のどこまでが本当でどこまでが嘘なんだ!関連書籍を読まないといけないのかしら……。
上巻終了時点では、書物を追跡するというより、文書館と「アフリカノ果テ」にたどり着くのが目的のようです。下巻が楽しみでしかたありません。早く眼鏡直らないかな。
積んどいた期間最高記録かも。
極度の近視と乱視なので、外出時はともかく、家の中で生活するのにコンタクトは向いてないです。細かいものや近いものを見るのが非常に難しいうえに、注視や凝視をするとすぐに眼球が乾燥してしまいます。長時間の読書なんて望むべくもない……。
そんなわけで、目薬片手に『薔薇の名前』真っ最中です。笑いが止まりません。ベーコンを信奉する修道士、贅沢に溺れる修道院長、職権濫用の文書館長補佐などなど。「『薔薇の名前』を日本でやると京極の『鉄鼠』だ」という話を耳にしたことがありますが、そんな素敵評を世に流布したのは誰なんだ!
ああ面白いああおかしい。読んでも読んでも終わらないって素晴らしい。
九鬼周造著、全注釈藤田正勝、講談社学術文庫。

「粋」とはなにか?に迫る日本哲学史上に残る名著。

むちゃくちゃカッコよかった。哲学の本を読んで「カッコいいー!素敵ー!キャー!」と叫ぶ日がくるとは夢にもおもわなんだ。硬質で洒脱、これが粋だよ粋だともー!と大暴れしたくなるような文章。おそろしく明快な論の立て方。序説から結論までの全体構造のうつくしさに打ち震えました。「論理的なものの美しさ」を目の当たりにするなんて滅多に出来ない体験しました。
「アキレウスは「そのスラリと長い脚で」無限に亀に緊迫するがよい」
直前に引いた菊池寛を踏まえての、この言い切り型には心臓わしづかみにされました。なんという劇的な転換か(「スラリと長い脚」のアキレウスと追われる亀の関係性がいきなりエロいことに!)。
序論は、「いき」を問うには一体どのような方法を取るべきか、という方法論からはじまっています。そして形式的抽象化によって見出される共通点、個別のものから普遍的な「本質」を求めるような「形相的」方法であってはならない、と本質論で「いき」を追求することをしりぞけています。のっけから本質論を除外し、ハイデガーの実存主義で行こうと宣言する九鬼周造に相当驚きました(哲学といえば本質論で、フッサール絡みの現象学で卒論書いて、「ハイデガーで卒論を書くと、必ずこける」という伝説まであるコースに所属していた目が節穴なわたし)。実存主義ってそういう主張だったかしらん。
「いき」の例として挙げられている為永春水、長唄、清元節、義太夫節、鳥居清長、ひとつひとつが憧れをかきたてる魅力に溢れて、形容詞をつけるならばそれこそ「粋」なのだけれど、これら日本文化の精髄が気軽に入手できないってどういうことなんでしょうねー、と落ち込み。読み返すたびに馬鹿の一つ覚えで「カッコいいー!」と叫びながら悶絶。「唄女とかいふ意気なのでないと、お気には入らないと聞いて居ました。どうして私のやうな、おやしきの野暮な風で、お気には入りませんのサ」なんて身悶えするですよ。
意外と薄手な本で、注釈をのぞくと更に薄くなることを考えると、論文としてはかなりの短さ。長大であるほどよいという傾向がある(長大であれば多少最後がぐだぐだになっても見て見ぬふり、ということもなくはない)世界でこれは度胸あるなあ。そして外国の論文を訳した場合に多いわけのわからなさとは全く縁のない完璧な日本語で、非常に読みやすかったです。翻訳物のわけのわからなさは、ほんとに洒落にならんです。まず自分の理解できる日本語に訳してから、内容を理解するという二度手間が非常に腹立たしい。注にあったデカルトの一文、「もし私が、私は見る、あるいは私は歩く、それ故に私はある(存在する)と言えば、そしてそれが、身体によってなされる視(見ること)、ないし歩行のことを言っているのだとすれば、この結論〔私はある〕は絶対的に確実なものではない」なんて余りの意味不明さにぽかーんとしてから爆笑してしまいました。そりゃ教授も原文読めって言うはずです。
日本人がずっと当たり前のこととして言葉にしなかったこと、ものを、言葉にしようとする試み。哲学が生きた学問であるならば、生きた現実を生きたまま闡明できるはず。「そうして、意味体験と概念的認識との間に付加通約的な不尽性の存するところを明らかに意識しつつ、しかもなお論理的言表の現勢化を「課題」として「無窮」に追跡するところに、まさに学の意義は存するのである」。これが心意気だ。すなわち「粋」だ。

解説を見るに、かなり現代仮名使いに直されて、あちこち送り仮名が付され、ひらがなに開かれている様子。全注釈と合わせて、読みやすさ抜群。全注釈素晴らしかった!ものすごくわかりやすい!解説も草稿から単行本までの変遷を押さえて実用性高いし。勘違い注釈に泣かされたことがある人にとっては、素敵注釈というのは何もにも代えがたい喜びです。講談社学術文庫はこの調子で頑張って欲しい。応援します。
自発的に哲学の本を買って喜んで読む日がくるとは、人生ってわからないものですね。

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