一度感想を書いたことのある本なのですが、後から後から言いたいことが湧いてくるので書いてしまいます。

『探偵伯爵と僕』森博嗣著、講談社ミステリーランド。
ラスト、伯爵が「ただの大人でしかない」ことにがっくりしたわけです。ここでがっくりしたのは、きっと新太にえらい感情移入していたのと、自分が子供の頃身近にいて欲しかった理想の大人像がひっくり返されたせい。でも、この「がっくり」がなければいけない話だと、つくづくと思うのです。この伯爵のイメージ転覆があるからこそ、新太が(ネタバレ)であったことが余計に響いてくるわけで。現実に対する防衛というのは、強固であるほどかなしい。それほどまでに傷つける何かと出会ってしまったという事実が、壁が補強されればされるほど、かえって際立ってしまう。
新太がどうしてこの事件を物語に仕立てたか、という理由が一番衝撃でした。読んだ当初はあまりにぎくりとした後ろめたいような気分が強くて、感想に書けずに省略してしまいましたもの。時間がたって、ネット上で他のかたの書いた感想を見て、ようやく口にしてもいいかなと思えるようになりました。だってあの理由は身に覚えがありすぎる。(ネタバレ)だから、という理由で殺されるぐらいなら、誰でも良かったといわれる方がまだ公正だとすら感じます。殺されるのは全く御免ですが。あの気もちは、男性には理解できないだろうと決めてかかったいたところへ森博嗣。見直したというかもう「御見それしました」状態。へへー、と平身低頭です。
(ネタバレ)の気もちがわかる、それだけでなく子供の気持ちもわかる森博嗣。新太の理屈は、単純に論理的なだけに「子供のへりくつ」なんですね。外部からの影響を考えに入れてないところが幼稚。それじゃ思考実験だよ、というような風味をたたえていて、自分の子供の頃も似たようなものじゃなかったかなあとちょっと恥ずかしい。ザ・ものしらず。でも、新太が理論的に美しいのも当然で、事件を物語として再構成するだけの頭脳の持ち主なんですよね。(ネタバレ)には頭良い子の不幸みたいな気配もなくはない。
素敵大人と、素敵子供の夏休みの冒険が、あらかじめ失われていると思うと、かなしくなってしまうのです。
いつまで感想を引きずって「その作品について」考え続けるかというのは、その作品がどれほど心揺さぶったかと比例していますね。
森博嗣初心者に勧めるに打ってつけ。

なにか他にも書こうと思ったことがあった気がしますが、まあ思い出したときに書き加えていけばいいか。気が楽でいいです。
石田衣良著、集英社文庫。

初の短編集、初の恋愛作品集。短編10本を収録。
タイトと帯だけ見るとさよなら10連発のように見えてしまいますが、タイトル通りなのは表題作「スローグッドバイ」だけでした。
「フリフリ」のラストが良かった。なんて友達甲斐のない男!
「ハートレス」の「気もち悪い」が回収されてなくて気になります。きっとその後の時間軸の中で回収されているだろうからそれはいいんですが、「線のよろこび」はこの後が怖いんじゃ……。

「ちょっと甘口でもいいから、読み終わったあとで心地よい酔いを残すようなラブストーリーにしたいな(あとがきより)」
甘口。ラブストーリー。癒し系恋愛小説。そんな感じ。
細部の描写の冴えは相変わらず。
米原万里著、新潮文庫。

1ダースが12なのは、我々の世界に限ったことなのです。魔女の世界では1ダースは13。異文化同士の間では、何が常識で何が非常識かなんて相対的なものでしかない。異文化の激突するその現場で、同時通訳者という橋渡し役をなりわいとする著者が書いた13章。
言葉は文化なのだから、言葉を理解するということは、文化を理解するということに等しい。
何が常識であるか、というのは前後の文脈に依存する、文脈というのは状況、文化といっても差し支えない。
我々は、文脈から、判断に関して多大な制約を受けている。
当たり前のことをつらつら書いてみました。
面白かったことは面白かったけれど、微妙な感想しか浮かびません。タイトルが良すぎたので、それに釣られて期待値も高くなりすぎたのかもしれません。
何故下ネタの話しとなると、みんななれほど嬉しそうなのか、と真面目に考察してる辺りは飲食禁止。公共の場でも読んではいけません。うっかりしてると色々壊滅的なことになります。

山菜……。
前回感想が、字数制限ぎりぎりまでいったことに驚き怯えてしまい、書き落としたこと。
「モーロ事件」「新前衛派の文学的試練」がさっぱりわかりませんでした。これがわからないと楽しめない何がそこにあるんでしょう。
ロジャー・ベーコンとフランシス・ベーコンを素で間違えてました。というか、どちらとも判別がつかないほど混ざってしまっていた様子。「大学追放されたり、ぶちこまれたり、なんたら機関書いたり、腐敗防止実験のために真冬に戸外でにわとりの腹に雪詰め込んで、その時に風邪ひいたのが原因でお亡くなりになったりした人ってどっちだっけ?」……ベーコン表記にしておいて助かった。

先日家主が買ってきたブックカバーが、サイズがぎりぎり、折り返し定位置という、全く使えないシロモノであることが発覚。泣ける。
ウンベルト・エーコ著、河島英昭訳、東京創元社。

読んでも読んでも終わらないと思っていたけれど、下巻は意外と後半駆け足っぽい雰囲気で、それほど長いわけでもなかったのがちょっと残念。
一冊の書物をめぐって繰り広げられる殺人事件やら暗闘をメインに読みました。僧房で怪しい草を齧りながらインナースペースにひたりまくって推理するウィリアム師匠最高。文書館と迷宮の仕組みが冒険活劇のような気配をかもしだしていて最高。あれも最高これも最高、そして何が最高だったかというと、

んもうこの偏執狂!

と含み笑いしながら肩をどついてやりたいウンベルト・エーコの精緻なこだわりと教養。非凡かつ偏ってあるものをこよなく愛するタイプの本好きにはたまりません。偏執と耽美は紙一重で、みじんこは偏執と耽美こそを愛しております。
もう一回言っとこう。

最高だこの偏執狂!

文書館内部の地図が、物語中で語り明かされるくだりがあんまりにも偏執的な精密さをうかがわせて、思わず踊ってしまいました。周りに人がいなかったのがせめてもの救い。ものすごい怪しい動きをしていた自信があります。その怪しさと踊っていた時間の長さこそがエーコの偉大な本の素晴らしさを直裁に語っていたのですが、それを公表する度胸はありません頑張って感想書きます。片っ端から思いつく限りいってみよう。
べレンガーリオ。タッローニとダ・アルンデルが別人であるということに一瞬気付かず、なんで再登場してるの?!と目をむきました。タッローニは出てくるだけなので数に入れなくても大丈夫です。アルンデルのほうは、その悪癖が上巻でおおむね了解されますが、下巻ではそれ以上に悪趣味なので笑いが止まりません。アデルモはともかく(ネタバレ)はどうかと思うよ。そしてアデルモに対してはともかく、(ネタバレ)に対してはどっちがどうだったのかちょっぴり気になるようなならないような。
レミージョ@厨房係が大活躍で意外。と、言うか会談に絡んだ宗派皇帝教皇の争いはいまいちよくわからなかった。歴史とキリスト教の話はほとんど理解が及ばなかったので、この本の楽しみの全体の三分の一は理解できなかったということに。ああ残念。いずれリベンジの予定。異端審問官のベルナールはたいそう熱いですが、登場してからまもなく退場してしまうので、見せ場があんまりなかったです。ああいうひとが歴史の大舞台に登場すると、すごいことになるんだろうなーと思いながら読んでました。実際、教皇と皇帝の対立ですごいことになってる時代設定。
文書館に関しては、もう何も言うまい。ラストでは(ネタバレ)してしまうし、あの楽しさは読んだ人だけの特権ですよ。設計した人は知識階級の最高位にいたんでしょう。建築に従事した人たちは、終わってから殺されたりしなかったと余計なことまで想像できる文書館。神の威光、知識の泉、悪徳の巣。
アッボーネ僧院長の態度も、俗物振りが際立って素晴らしかった。晩餐の料理自慢にはじまり、宝石大好き権力大好き体面一大事の超保守派。なんというか(ネタバレ)まで予想通りで爆笑してしまいました。確かにああいうタイプなら(ネタバレ)に(ネタバレ)されて(ネタバレ)がお似合いですわー。ヴェナンツィオとペアで必須。
で、本命の犯人とウィリアムとアドソ。師匠があまりに師匠で、アドソが純真に慕いすぎてて泣ける。もう君ら師弟どころか親子でいいよ!揃って間抜けな失敗をして、お互いに罵りあったりころがりまわったりと、心あたたまる師弟コンビでした。特にラストのアドソの戦慄すべき問いに、答えられないと返したウィリアムの思いやりが切ないです。胸の中には既に確固たる答えがあるのに、論理的に正しいことであれば何者も恐れない師匠が答えなかった、というのがいいなあ。弟子の人生を思いやる師匠の姿が、二人の絆の強さを感じさせます。
真犯人は予想通り過ぎて脱力。先に(ネタバレ)を読んで(ネタバレ)していたのが敗因。(ネタバレ)配置からラスト(ネタバレ)までほぼおんなじだー!文書館での真犯人とウィリアムの切り結ぶ場面は息詰る緊迫感とカッコよさ。アドソが他のものなんて比べ物にならないと思うだけあります。
残念だったのは、読み手であるわたしのスペックが低すぎるのが原因で読み取れないたのしみが多すぎたこと(わたしにとっての主要な物語はキリスト教の歴史関係・連続殺人事件・記号論のみっつ)、特にキリスト教系に弱いばかりに、ぼへらーと無能に読み流した喜びがどれだけあるのでしょう。アドソが夢に見た「キュプリアーヌスの饗宴」は、厳格な一部の人が怒り出しかねないという印象を受けたんですが、詳しい人が読めばまた印象が違うのだろうなーと。ファラオが登場するたびに、なんでだなんでだと自問自答、それを律儀に3セット繰り返すアドソに爆笑しました。同じギャグは三回までだ!繰り返しネタも三度が限界だって!で、聖書のメジャーな人物がせっせと宴会で貪り食っている最中に、突然四十日間断食をはじめるキリスト。エーコお茶目すぎ。
イタリア語の原文には、ラテン語、ギリシア語、中高ドイツ語、サルヴァトーレの混沌とした言葉、など多数の言語が使用されているとのことで、これを原文で読んだイタリア人がうらやましいです。日本語では、カタカナで書かれている部分が「イタリア語以外の言語」なのですが、日本語の中でカタカナ表記という手法と、違う言語での記述がそのまま残っているのとでは、印象が全く違うんじゃないかと思うのです。ラテン語を読めないにしても、それらが身近なキリスト教圏のイタリア人と、キリスト教には縁のない日本語ネイティブの感想じゃ天と地ほどの差がありそう。ああもったいないなあ。
あとがきで、エーコの翻訳用メモの話をほのめかしては語らない訳者にちょっぴり怒りを覚えたのはわたしだけではないでしょう。語りえないことについては沈黙せよー!
「薔薇」がなんであったのか意見が分かれているみたいです。わたしは「僧院(あるいは文書館)」か「神」のいずれかだと思います。
地味に。
『魔女の1ダース』米原万里
『スローグッドバイ』石田衣良
『秘密の花園』バーネット
眼鏡も修理完了で、明日からは眼鏡読書生活再開。
ところで『秘密の花園』ってえらくエロいタイトルだと思いませんか。

発掘発掘。

2005年6月8日 未分類
司馬遼太郎の『関ヶ原』『項羽と劉邦』の文庫が、家主の荷物から発見されました。
わたし大喜び。
眼鏡も明日修理の予定なので、今月後半は読書に励みたいと思います。
ウンベルト・エーコ著、河島英昭訳、東京創元社。

中世イタリアの修道院で起こる、連続殺人事件。それを解決するべく修道士と弟子コンビが大活躍(の予定)。

うははは、なんて面白いんでしょう。笑いが止まりません。当時世界最高峰を誇ったとまで言われる文書館を持つ、山腹の僧院。世俗から隔離された筈のそこで、立ち入りを禁じられた文書館の塔から一人の僧が転落死したことから謎の連続死がはじまる。ロジャー・ベーコンを信奉するウィリアム修道士は、院長から依頼されて事件の謎を解くべく、弟子のアドソ(のちにこの物語の語り手となる)を連れて、事件の根幹にかかわる謎が眠る文書館へと足を踏み入れるが、そこはなんと迷宮でした!(じゃじゃーん!)。手がかりは、最初の僧が持っていた本一冊、しかしその本も何者かに持ち去られ、文書館の謎の鍵を持つ人間が片っ端から死んでるっぽい展開、三人目の死体が発見されたところで下巻に続く。
ウンベルト・エーコと、ミシェル・フーコーを混同していたことが大変申し訳なくも情けなくなる次第です。「むやみに分厚い本を書いた学者」くらいの認識しかなかったことがもろバレですね!『文体練習』欲しい、といいながら『フーコーの振り子』が念頭になかったこともついでに暴露しておきます。中世イタリア、トマス・アクィナスを大学で専攻し、記号学者として世界的に有名なウンベルト・エーコが、その頭脳の精髄を見せ付けてくれます。うあー面白いー。エンターテイメントの極みでありながら、同時にアホほど知性に満ち溢れた、他の追随を許さない一冊。
記号論にからんだ帰納・演繹法による推理を「得意げに」披露する師匠。師匠を尊敬し「流石です師匠!」とあとをちょこちょこくっついてくる弟子。宝石の美しさは天上の美と善を教えてくれる、と主張する俗物根性丸出し院長。閉じられた僧院で怪しい情熱の虜となり、職権濫用甚だしい文書館長補佐。何処のものとも知れぬ、また何処のものでもありうる奇妙な言葉を喋る正体不明の男。昼の顔と夜の顔を持つ荘重華麗な僧院。そして限られた者以外の立ち入りを拒む、迷宮を備えた文書館。ラテン語で会話していた知識階級を描くなんて、と戦いていたのも束の間、登場人物はいかにも人間らしい姿で、おのおの勝手な欲望に正直に突っ走る姿がとても可愛らしい。最初のうちこそ、慣れない片仮名名前、それもラテン語読みで「誰これ?誰これ?」という状態になってましたが、それぞれ行動を起こす段になると人間がはっきりしてきて登場人物紹介も必要ありませんでした。各巻に挟まってた地図と登場人物紹介カードにはびっくりしました。素敵な配慮を有難う創元社。
冒頭に、メルクのアドソの手記を入手し、発表に至るまでのいきさつが置いてあります。この「私」こそが作者のウンベルト・エーコその人であることに気付かず、間抜けな読みをしてしまいました。「手記だ、当然のことながら」という一文をどーんと載せておいて、これこれこういういきさつで入手した手記が「薔薇の名前」の元ですよ、ということらしいのですが、そのメタっぷりにもときめく。手記と手記に付された原注のどこまでが本当でどこまでが嘘なんだ!関連書籍を読まないといけないのかしら……。
上巻終了時点では、書物を追跡するというより、文書館と「アフリカノ果テ」にたどり着くのが目的のようです。下巻が楽しみでしかたありません。早く眼鏡直らないかな。
積んどいた期間最高記録かも。
極度の近視と乱視なので、外出時はともかく、家の中で生活するのにコンタクトは向いてないです。細かいものや近いものを見るのが非常に難しいうえに、注視や凝視をするとすぐに眼球が乾燥してしまいます。長時間の読書なんて望むべくもない……。
そんなわけで、目薬片手に『薔薇の名前』真っ最中です。笑いが止まりません。ベーコンを信奉する修道士、贅沢に溺れる修道院長、職権濫用の文書館長補佐などなど。「『薔薇の名前』を日本でやると京極の『鉄鼠』だ」という話を耳にしたことがありますが、そんな素敵評を世に流布したのは誰なんだ!
ああ面白いああおかしい。読んでも読んでも終わらないって素晴らしい。
九鬼周造著、全注釈藤田正勝、講談社学術文庫。

「粋」とはなにか?に迫る日本哲学史上に残る名著。

むちゃくちゃカッコよかった。哲学の本を読んで「カッコいいー!素敵ー!キャー!」と叫ぶ日がくるとは夢にもおもわなんだ。硬質で洒脱、これが粋だよ粋だともー!と大暴れしたくなるような文章。おそろしく明快な論の立て方。序説から結論までの全体構造のうつくしさに打ち震えました。「論理的なものの美しさ」を目の当たりにするなんて滅多に出来ない体験しました。
「アキレウスは「そのスラリと長い脚で」無限に亀に緊迫するがよい」
直前に引いた菊池寛を踏まえての、この言い切り型には心臓わしづかみにされました。なんという劇的な転換か(「スラリと長い脚」のアキレウスと追われる亀の関係性がいきなりエロいことに!)。
序論は、「いき」を問うには一体どのような方法を取るべきか、という方法論からはじまっています。そして形式的抽象化によって見出される共通点、個別のものから普遍的な「本質」を求めるような「形相的」方法であってはならない、と本質論で「いき」を追求することをしりぞけています。のっけから本質論を除外し、ハイデガーの実存主義で行こうと宣言する九鬼周造に相当驚きました(哲学といえば本質論で、フッサール絡みの現象学で卒論書いて、「ハイデガーで卒論を書くと、必ずこける」という伝説まであるコースに所属していた目が節穴なわたし)。実存主義ってそういう主張だったかしらん。
「いき」の例として挙げられている為永春水、長唄、清元節、義太夫節、鳥居清長、ひとつひとつが憧れをかきたてる魅力に溢れて、形容詞をつけるならばそれこそ「粋」なのだけれど、これら日本文化の精髄が気軽に入手できないってどういうことなんでしょうねー、と落ち込み。読み返すたびに馬鹿の一つ覚えで「カッコいいー!」と叫びながら悶絶。「唄女とかいふ意気なのでないと、お気には入らないと聞いて居ました。どうして私のやうな、おやしきの野暮な風で、お気には入りませんのサ」なんて身悶えするですよ。
意外と薄手な本で、注釈をのぞくと更に薄くなることを考えると、論文としてはかなりの短さ。長大であるほどよいという傾向がある(長大であれば多少最後がぐだぐだになっても見て見ぬふり、ということもなくはない)世界でこれは度胸あるなあ。そして外国の論文を訳した場合に多いわけのわからなさとは全く縁のない完璧な日本語で、非常に読みやすかったです。翻訳物のわけのわからなさは、ほんとに洒落にならんです。まず自分の理解できる日本語に訳してから、内容を理解するという二度手間が非常に腹立たしい。注にあったデカルトの一文、「もし私が、私は見る、あるいは私は歩く、それ故に私はある(存在する)と言えば、そしてそれが、身体によってなされる視(見ること)、ないし歩行のことを言っているのだとすれば、この結論〔私はある〕は絶対的に確実なものではない」なんて余りの意味不明さにぽかーんとしてから爆笑してしまいました。そりゃ教授も原文読めって言うはずです。
日本人がずっと当たり前のこととして言葉にしなかったこと、ものを、言葉にしようとする試み。哲学が生きた学問であるならば、生きた現実を生きたまま闡明できるはず。「そうして、意味体験と概念的認識との間に付加通約的な不尽性の存するところを明らかに意識しつつ、しかもなお論理的言表の現勢化を「課題」として「無窮」に追跡するところに、まさに学の意義は存するのである」。これが心意気だ。すなわち「粋」だ。

解説を見るに、かなり現代仮名使いに直されて、あちこち送り仮名が付され、ひらがなに開かれている様子。全注釈と合わせて、読みやすさ抜群。全注釈素晴らしかった!ものすごくわかりやすい!解説も草稿から単行本までの変遷を押さえて実用性高いし。勘違い注釈に泣かされたことがある人にとっては、素敵注釈というのは何もにも代えがたい喜びです。講談社学術文庫はこの調子で頑張って欲しい。応援します。
自発的に哲学の本を買って喜んで読む日がくるとは、人生ってわからないものですね。

『しゃばけ』

2005年5月21日 未分類
畠中恵、新潮文庫。

虚弱体質な廻船問屋の一人息子一太郎、通称若旦那と、超過保護な妖怪の手代佐助&仁吉がどたばたな日常を送りつつ連続殺人事件を解決する話。
若旦那は幼い頃から妖怪に囲まれまくって育ち、身のまわりに当たり前のように妖怪がいる日常を暮らしているツワモノ。佐助と仁吉に日々過保護の檻で牽制されながらも、自分の生き方について考えることの多い17歳。こっそり出かけた帰り道に人殺しに遭遇してしまい、なんとかその場は逃げ切ったけれども、事件はそこで終わらなかったのでした。

新人らしからぬ馴れ馴れしい文章にびっくり。読者との距離感がうまく取れていない、という作品にはいくつも出会ったけれど、「近すぎる」という作品は非常に珍しいのでは。遠すぎてもあまり問題にならないけど、近すぎると大抵どっか破綻してしまってるものだけどなあ、作品のレベルの高さを考えるとこれはすごい。
若旦那がたまたまいきあった人殺しに端を発した、連続殺人事件を解決する筋は終始一貫しているし、死にかけ若旦那の周囲の人間模様や環境その他無駄になってる細部もなし、慣れた手つきでまるっと仕上げられた餅みたいな作品。一瞬シリーズ三作目くらいのところを間違って買ってしまったのかと思いました。
多分「近い」と思ったのと「シリーズ半ば?」と思った原因は同じで、説明の省略の多さなんでしょう。鈴彦姫の登場する辺りなんかで感じたのですが、地の文での説明がほとんどない。つくもがみで鈴が本性で、と一応の説明はあるのだけれど、若旦那の対応があっさりしすぎ。何故若旦那が驚きもしないのか云々は、手代二人と合流してからあるにはある……、というかこれがどうにも「読者さまにはおなじみ」とシリーズ進んで説明の辺りを省略し始めた作品によくある「共通理解を前提にした説明の省略」にしか見えない。シリーズ初期からの読者には通じても、新規参加の読者には微妙に通じないおかしな説明を目にしたことが全くない人はいないと思います。あの微妙な省略のきいた説明を見て、「あれ?」と思ったこともあれば、人に指摘されるまで気付かず「ああ」と思ったことも多々ある身としては、正直この距離感には好感が持てません。お願いだから一作目くらいはきちんとやってよ、と思います。なじみの客しかいない舞台とか楽屋とかいう雰囲気は勘弁して欲しい。登場するだけ登場して、説明もない活躍の場所もない名前だけ妖怪はいったいなんだったのかと。
あと気になったのは心理描写の()使用と、むやみな台詞の多さ。表紙折り返しの著者紹介の「都筑道夫の小説講座に通って〜」。非常に読みやすくて明るい物語ではありますが、どうしても京極の『豆腐小僧』と比較してしまうので評価が辛めになりました。
福田恒存、文春文庫。

タイトルすら正しく表記できない不遇さが、既にしてこの本の一部を語っていると言っても過言ではない。戦後の国語国字改革を批判し、現代仮名使いの問題を指摘した名著。
ものすごくひらたく言えば、言語として正しいのは旧仮名遣いであり、現代仮名遣いの非合理性は頭おかしいとしか思えないから撤回しやがれコンチクショウ、という主張を、懇切丁寧明瞭明快に記した本。
日本政府が現代仮名使いを制定しようとした当初、表音文字という原則に従って「漢字撤廃、ローマ字表記」を目指していたと知った時にはさすがに開いた口が塞がりませんでした。既に現代仮名使いに慣れ親しんで半世紀世代、生まれてからずっと現代仮名使いで暮らしてきたわたしでも、発案者の脳(暴言につき省略)を疑いました。ローマ字表記って。英語などのアルファベットを使用する言語は、表音的で覚えやすいから教育にも宜しいというのが建前だそうですが、教育に宜しいのは難易度が高い方だし、英語の何処が表音的なのかと小(略)。

「こんにちは」「こんにちわ」さていずれが正しいのか、と尋ねられたときに「本日はお日柄もよく、という類の挨拶が縮まったものだから、今日は、すなわちこんにち『は』が正しい」と答えられる人は今日本人の何割くらいなんでしょう。「いちおう」と「いちよう」の区別がつかない若いお嬢さんが発生しているのを見ると、音韻なんて語意識に左右されるものを根拠にすることがいかに危険か、そして語意識が教育に左右されるものだなんてことは一目瞭然だと思うのですが、戦後の識者にはわからなかったようです。あまつさえ「タイプライターで書けないから」と、正気の大人とはとても思えないことも抜かもとい主張していたと聞いて頭を抱えました。
本論の焦点となっているのは、現代かな使いがいかに非合理的で矛盾しているか、という点です。「危うい」なのに「危ぶむ」。「〜尽くし」なのに「〜ずくめ」。「地面」は「じめん」なのに、「鼻血」は「はなぢ」。何より、「は行は、あ行あるいはわ行に転化」という法則が格助詞に限っては適用されない。旧仮名遣いに照らしてようやくわかる言葉も多い。その矛盾を活用法や語源をあげながら、丁寧に説明しています。発音にはとんと疎いのですが、それでも文字を目で追うだけで理解できる活用の正当性素晴らしい。

これだけ法則性のないものを「合理的」と主張する思考法がもう理解できないし、それで教育が簡便になるという発想には唖然とするばかり。戦後すぐに字体の改革案を提出して、占領軍に一蹴されたとかいう事実含めて、文化そのものである言葉をないがしろにしすぎ。ワープロ導入の際に、あの気持ちの悪い略字を勝手に差し込んだ奴は戦犯扱いでオッケー。森鴎外が略字しか出ない上に、正しい表記にすると文字化けするって何事ですか。
ネット上で見かける旧字旧仮名サイトが好きになれないことが多いのは、多分「現代かな使いで作成した文章を、そのまま旧仮名に自動変換しているだけ」に見えるからなのだと思います。もはやわたしたちの語意識は、戦前のそれとは比べるべくもないほどに破壊されているのでしょう。「一先づ」は知っていても、それを「まず先に」に適用して考えることの出来なかった自分に、ほとんど絶望に近い驚きを覚えました。
あの時代に「ワープロで漢字を自在に操れるようになる時代がくる」と明言していた著者の先見の明に感服。「宣長」「契沖」が開発されたいきさつを知って感動。「冒涜のとくが略字体なのはそれこそぼうとくだー!」と嘆き悲しんでいた卒論担当の教授が、専用ソフトをしきりに学生に勧めていたことを思い出します。

「すはち、英国民の考へ方はかうだ。われらの表記法は難しい。が、それが宿命とあらば、よろしい、それなら学校教育を一年早くはじめよう」
むちゃくちゃカッコいい。

日本語をこよなく愛する人、略字体の醜さが我慢ならない人、旧字旧仮名を愛する人、自分も旧仮名遣いで書いてみたいという誘惑を感じたことがある人、送り仮名のゆらぎが気になる人、そして、
「一、作家・評論家・学者、その他の文筆家。
 一、新聞人、雑誌・単行本の編集者。
 一、国語の教師。
 一、右三者を志す若い人たち。」
におくる、最高の国語教本。
岩井志麻子、中公文庫。

帯の煽り文句は「熱帯の地/ベトナムに咲いた/四日間の/恋」だそうです。渡辺淳一と林真理子が絶賛しています。第二回婦人公論文芸賞受賞作品だそうです。
この時点で大体想像つく人がいると思います。そしてその想像はほとんど当たってます。
読む前に確かめて欲しい岩井志麻子を読む際のおすすめ順。
『ぼっけえ、きょうてえ』>『魔羅節』>『ラック・ヴィエン』>『自由戀愛』>『チャイ・コイ』
特に『ラック・ヴィエン』は『チャイ・コイ』より先に読んではいけません。最初に『チャイ・コイ』読むのも不幸の元です。『自由戀愛』は『チャイ・コイ』への布石だと思って読んでおくと幸せになれます。

ほとんど『ラック・ヴィエン』と同じです。ただ、ホラーではないので、仕掛けとしての落ちはありません。ベトナムに行った私が愛人と出会う四日間の物語。作品の八割近くがベッドシーンで、かつ女性一人称、かつ渡辺淳一と林真理子が絶賛しそうな内容です。この時点でみじんこが想像したものと、内容のズレは二割もないと思います。ひたすらベッドシーン、回想もベッドシーン、淡々とした上品な文章で延々とベッドシーン。生々しい場面のはずなのに、露骨な性描写の不快感を全く与えないところはさすが。いつのまにこんな文章も書けるようになったのか岩井志麻子。引き出しが広いというか、守備範囲の広さに舌を巻きました。どの時代でもどの国でも書くし、上品にも下品にも、思いのままに書いてみせる幅の広さ。
濡れ場の半分くらいは、主人公の人格をあらわすためのエピソードで、実際に物語中に占める量より少なく感じました。5割くらいかなと思っていたら8割。言われて確かめてびっくりしました。

これにて「文庫岩井志麻子大会」閉会。
塩野七生、新潮文庫。

「これ誕生日プレゼント〜☆」と友人がくれました。誕生日に塩野七生……。ここだけ聞くとやけにハイソな人生を送っているように聞こえるので不思議。

塩野七生の映画エッセイ。映画鑑賞と読書を同列のものとして育った、イタリア在住の作家が語る映画への愛(と自分の趣味)。
みじんこは、取り上げられた映画のうち、ちゃんと見た数は片手で足りてしまうような人間ですが、それでも大変楽しく読めました。まず感動したのは、語り口の渋さ。漢字の選択といい、送り仮名の使い方といい、古きよき時代の香りがします。ああ素敵だ。映画を通して恋愛も政治も戦争も音楽も文化も、縦横無尽に語る塩野節。ものをつくる人間としての立場から見た映画の姿も面白かったし、イタリアに住む日本人としての視点も面白い。「ゲイリー・クーパーが好きだ好きだ」と愛を語り倒す、昔お嬢さん今作家、という塩野七生は超キュート。
印象深かったのは、「’50年代のハリウッドの最高の美女」エヴァ・ガードナー。世に完璧な美女はいるのもだとかなり長いこと写真を凝視してしまいました。何処にも訂正の余地がない、何処をとっても完璧な美貌なんて生まれてはじめてみました。そのポスターを見ただけで、会ったことも歌を聞いたこともない歌姫に心底ほれ込んで純愛をささげた首吊り判事。名誉とまで言うか!しかし写真を見ればこれが納得せずにいられようか。これは死ぬまでに『ロイ・ビーン』を見ねばと決意しました。
女優の持つ、現実を越える虚構のちから。ヨーロピアン・ジゴロのエピソードにはさすがヨーロッパと感歎したし、若い男なんて二人で一人前みたいなものだから、一人でも存在感充分という年頃になってから一人に絞ればいいのです、という主張には吹き出してしまいました。頭っから尻尾まで、ああそうだ、え、そうなのか、なるほど、それもありだな、と毎回示されるエピソードや考えかたに賛同したり首を傾げたり、考え込まされたり笑ったりと、読んでいる間実に充実しておりました。
要するに、感想や観賞態度というのは本人の価値観その他がまるっとあらわれるわけで、いい物をかくひとは何を書いても面白い、というのはこういうことなのだなあとしみじみ思いました。
岩井志麻子、集英社文庫。

「美貌と才能とお金、そして幸せな家庭。全てに恵まれた「私」は、執筆に専念するため、マンションを借りる」
そして「私」は担当編集者の三浦君がマンションを訪れるのを心待ちにしながら、マンションの隣にある古びたアパートの住人達をモデルに、小説を書き始めた。

割と普通。秀麗で醜悪な筆致は、冷たく乾いた空気の中でも相変わらず腐臭を漂わせているけれど、いつもに比べると大人しめ。その中で、「いずれ檸檬は月になり」では、薄い膜を一枚通したような遠さが目新しい。うっすらと檸檬色に包まれ気が狂いそうなほど歪んだ、夢のような世界。
解説の言葉、「枠物語」が一瞬なんのことか思い出せずに悩んでしまいましたが、確かになるほど、三浦君と私のパートに挟まれた作中作は「枠取りされた物語」という形式を見事に踏襲しています。しかも落ちが(ネタバレ)なので枠は(ネタバレ)重になってます。
長らく伝統として積み上げられ磨き上げられ記号化された「花鳥風月」。芸術家は、美しいそれらに地獄を透かし見ていたけれど、岩井志麻子は逆でした。現実の地獄の上に、絢爛たる「花鳥風月」を見る。解説にも書いてありますが、甘美な地獄を描く岩井志麻子にすれば、それはもう当然の帰結なのかもしれない、と強く印象に残ったのでした。
岩井志麻子、角川ホラー文庫。

永遠に夏の続くベトナムを舞台にした、官能ホラー。
ホラーである必要を特に感じないんですが、それは「ホラーと名乗る資格なし」という意味ではなく、ホラーとしての落ちがなくても充分成立するだけのちからを持った物語、という意味で。あるいは、ホラーとしての落ちなどなくてもこの本は充分にホラーかもしれません。極彩色の甘美な地獄、索漠とした清潔な天国、というものが存在するなら。

凍える東京に男を残して、灼熱のベトナムに、未だ見ぬ「彼」を求めて旅立った私、は、私を待ち続けていた「彼」に出会う。
うっかり『チャイ・コイ』を同時進行で読んでしまう痛恨。おかげで頭の中で細部がごちゃ混ぜですよ。しかし先に『チャイ・コイ』読んでから出なくて良かった。途中で気付いて刊行順に立ち返ることができたのは不幸中の幸い。
やたらと対句表現が多いところや、きらきらしい硬質な語り口なんかは「若いな岩井志麻子」という感じ。ラスト付近でだらーっとなってしまうのも、今まで読んだ本と比べると、崩れてるとまでは行かないものの甘いな、という気がする。
しかし、上手い。半分くらいがこってりベッドシーンにも拘らず、読ませる読ませる。腐乱寸前の華麗さ、絢爛たる地獄を描かせれば、岩井志麻子の右に出るものはない。不幸の予感の甘美さに打ち震えるヒロイン、という造作からしてそこいらでお目にかかれる凡百の設定を凌いでます。耽美好きの心を動かす醜悪さ。日本の閉鎖的で陰湿な土地も、騒がしく混沌とした南の国も、同じほど魅力的に地獄と天国の両方を写す姿として描く筆力。
絶対、岩井志麻子は大化けするぞと思いながら買い集めていた甲斐がありました。感想書くために調べたら、ものすごい勢いで色々受賞してるんですね……。みっつくらいしか知らなかった。がくー。
「彼」のなにげない美形描写が面白いです。いや、ほんと臆面もないという感じで。
岩井志麻子、講談社文庫。

「エッセイと呼ぶにはあまりに怖い物語」14話を収録。
ホラー作家が現実の世界で遭遇する、怖い人、面白い人、陰惨な人、陽気な人、いわく言い難い物語を持ち込んでくる「岩井志麻子のファン」たち……。
「私をモデルに小説を書くのをやめてください」「私生活を覗き見るのを(以下略)」「運命の人、だから僕と(以下略)」の三種類に大別される、明らかに電波っぱなファンをひきよせまくり、「キチガイの誘蛾灯」とまで讃えられた岩井志麻子。「岩井志麻子が嫌いだ嫌いだ殺したいと思いながら、どんな小さな記事でも読まずにはいられない、そういった人たちこそが本当のファンではないのか?」と言い出してしまう岩井志麻子。
さすがだ。
解説に人の話によると、テレビ出演した際に「好みのタイプは小太りでなんでも言うことを聞いてくれる人、デブの奴隷男が理想」と言い放ち、放送できるのか危ぶまれるほどの持ちネタを披露したとか。ものすごく見たいその番組。ワールドワイドにデンジャラス。
東京に出て、小説家としてやっていけるようになったら「わしの地べたが欲しい!」と言い出すところなんてものすごく可愛らしいのにね。
エロ話が好きで好きで仕方ない理由、を読んで、あっと思った。
「あなたがどんな性生活を送っているか言ってみたまえ。あなたがどんな人物か言って見せよう」(『発情装置』p.266)
上野千鶴子も同じことを言っていました。

語るのに必要となれば、どんな言葉でも無意味な迂回や躊躇を全くせず、ずばりと言ってのける、言葉の選択に関する直球さがたまりません。
涼風涼+ニトロプラス、角川スニーカー文庫。
PCソフト「ハローワールド」ノベライズ、完結編。

壁本。

予想通りお嬢様関係の人々は一行も登場しなかった。
二冊で終わるような長さじゃないのに、圧縮圧縮不可逆変化!で切り詰めた結果、省略も大概にしろよという骨しか残らない物語になりました。どこに「BLAZE UP」である必要があったのか、最後まで読んでもわかりません。トゥルーエンドなのに全員揃わないってなにさ!純子さんルートだと思ってわくわくしていたわたしの純情をどうしてくれる。
うん、もしかして涼風涼はたいそう優秀なノベライズ屋かもしれない、と本気で思いました。こういう書き手がいるおかげで、「原作のあるノベライズは二流」って認識が当たり前のようにまかり通るんだよー!
対HIKARI戦で涙し、対オシリスで「やってること同じだなー」と解っているにも関わらず涙し、ED見て号泣した(ノーマル・トゥルー関係なく5回目くらいまでED見るたびに泣いてた)わたしの思い入れはこの程度でくじけないもん。……くじけない……もん……。駄目だ、くじけそう。
原作はともかく、小説ではくじけます。何も知らずに手を取った人が「つまらないからイラネ」ってなったら、ほんとどうしてくれるのかなー、と思いつつ後書き読んで、投げる寸前でした。
「完全版」
えーと……、
本に挟まっていたリーフレットを見て、
「連載開始」
……えーと、
「我らはそろそろ『ニトロ信者』をやめて、虚淵信者とか鋼屋ファンとか和樹スキーとか、名称を改めた方がいいんじゃないの?」と、家主と激論を交わしている最中であります。
メディアミックス自体は喜ぶべきことなのかもしれないけれど、苦渋を飲んだ経験が多すぎる、メディアミックス否定論者になりそうです。

「青い記憶」「BLAZE UP」は(使用メディアがアレだからという理由で)聞くのにこっそりと人目を忍ぶ必要がないくらい素敵な曲です。

『発情装置』

2005年5月9日 未分類
上野千鶴子、筑摩書房。「エロスのシナリオ」。
あったので読む。そして実は二回目。ちなみにわたしの本ではありません。
98年の本なので安心して読めました。古くてわかりやすい。「成文化」ということの偉大さに改めて感じ入りました。
しかしまあなんと統一感のない本よ。上野千鶴子がフェミニズムに関連して書いたものなら、論文でもエッセイでもまとめて収録、という感じ。文章が論文調なので、うっかり論文だと信じて読んでいた章が、実は非常に主観的な主張で、単に論文調の文章し書かけないがために論文に見えていただけ、と気付いたときには苦笑いしました。迂闊な自分と書き分けの出来ない上野千鶴子に。よくよく考えてみれば、この人の専門はあくまで論文なのだよなあ。ちょっと要求しすぎたかも。
援助交際など、過去のものとなり、解体・定着したものについて論じているくだりを読むのはとてもわかりやすくて楽しい。激動真っ只中にいる人間には見えないことやわからないことを、後から見て呑気に「あれはああだったのさ」と語る無責任な楽しみ。間違っていること正しい(と思われる)ことなど、それらのことを知っている「今のわたし」の視点で読み、したり顔で同調したり反論したりする楽しさ。意地が悪い読み方ですが、読者特権というのはつまりこういうことなのではないかしらん。
それはさておき。作品世界における実験、「ジェンダーレス・ワールドの<愛>の実験」の章が今回一番楽しめました。少女漫画で少年愛が描かれる理由について、フェミニズム的な視点で解釈したくだりなんですが、長野まゆみで散々分離されたセクシュアリティとジェンダーを見て、初回より理解が進んだおかげかと。しかしひるがえせばこの「過去の死んだ主張」を理解できる時点で、わたしは現在の生きた現象に対する理解からは置いてけぼりを食らってるわけで、甘んじて受けよう超保守派の称号を。昨今巷に氾濫する商業BLには食指が動かなくってよ!(触手も動きません)。というかあの恥ずかしい表紙とタイトルを何とかしてくださ……い……。
とりあえず、「宮台君」「(ハートマーク)」はやめなさいと。あと、ヒステリックな物言いと言われるのも無理なかろう他者への評価形容詞、などなど、が見ものでした。発情装置、というある種テクニカルタームを解説無しにタイトルに使っちゃうセンスもどうなのかなあ、サブタイトルっぽい位置に「エロスのシナリオ」なんて書いてあるし。勘違いして購入した人は、なんじゃあこりゃあ!ってなること間違いないと思います。それはそれで面白い光景だろうけども。
最近名前を聞かないけど、今なにしてるのかなー。
『聖戦ヴァンデ(上下)』
『今夜、すべてのバーで』
『あらしのよるに3〜6』

再戦予定→『ブライトライツ・ホーリーランド』

自転車でころびかけてくるぶし痛打。サドルに腰掛けた状態で、片足(欲を言えば利き足)が地面に安定感を持って届く高さ、が理想なんですがただいま激論中。
いたいよーいたいよー。

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