『真月譚 月姫』新刊が出たので早速買ってきました。
超ステキィー。
あのきのこ節をよく再構成したものだ。
ウンベルト・エーコ、藤村昌昭訳、文春文庫。

まずは上巻を読み終わりました。わけわかりません。ぱっと開いて、見開きページの中で見たことも聞いたこともない単語が3割、見たり聞いたりしたことはあるけれどなんのことかよくわからない単語が6割、きちんと知っている単語が1割。そしてその1割の中で、作者が捏造した面白ストーリーや元ネタありのパロディやらを「完全にわかって」読めるのなんて更に1割を切っていそうな恐怖。以前に牧野修の『楽園の知恵 あるいはヒステリーの歴史』で「演歌の黙示録」を読んだときも相当幻惑されましたが、それをあっさり超えてしまっていて、これは壮大な空中楼閣なのかそれとも全て確かにこの世に存在することなのか、境界を見極めるどころか、焦点を合わせると消えてしまう視界の端でしかとらえられない蜃気楼とにらめっこしている気分です。

ほんっとうに読めたところだけ粗筋。
主人公はフーコーの振り子のある国立工芸院の中に、閉館後まで隠れ潜んで何かを待っている。そして何故そんなことになったのか回想をはじめる。出版社の仲間の一人が、テンプル騎士団に関する本を出版する話を進めているうちに、命を狙われていると言い残して失踪した。全てはオカルトマニアの虚言でできていると信じていた計画や団体の話が急に真実味を帯びてくる。私は、私たちは、愉快な遊びの気分のまま、触れてはいけない真実に触れてしまったのだろうか?ともかくも、私は12時過ぎに現れる相手を待っている。

この回想がほぼ上巻すべて。殺人事件のようなことも起きれば、行方不明者もいる、あちらこちらに姿を見せるテンプル騎士団に関係あるらしい謎の人物や、またテンプル騎士団!と思わせるようなできごと。本を出版しようという企画が、何故か転がって回って拉致監禁暗殺の危機にまで及んでしまう。そこに至るまでのいきさつは、もつれにもつれ、当事者にすら理解できない。出版社にそれっぽい話を持ち込んでくる人間はみんな、ありもしないことを信じているオカルトマニアの電波ばっかりだったはずなのに……!
ウンベルト・エーコがものすごく電波(を受信しているとしか思えない誇大妄想狂)を描くのが上手くて意表を突かれました。作者の肩書きのせいか、こんなに電波を素敵に書くなんて思いもよりませんでした。またその電波をごく簡潔に的確にあらわす表現の巧みさも素敵。「他人の主張を自分の主張の根拠にしているような連中」のような。今具体的に引用しようとして本を開き、どのページだったか探すのを断念しました。何せ上巻本文が約550ページほどという分厚さです。かろうじて二段組ではないのですが、改行による空白がほとんどない驚異のみっしり具合には溜息が出ます。
翻訳が非常にこなれていて読みやすいのですが、こなれていて読みやすい以上に信用ならない気配があって心配です。イタリアの人間が会話しているのに「恐れ入谷の鬼子母神」はないでしょう……。
この類の、こなれていると好意的に解釈できないような、砕きすぎて思わずけつまずいてしまうような訳がちょこちょこあります。今のところストーリーの進行にはさして影響はありませんでしたが、感想を書くために色々検索したら「数値間違っている」という突込みまであって気になって仕方ありません。しかし日本語以外でこれを読もうとしたら、一生の大仕事になりそうなので大人しくあきらめます。
山尾悠子、国書刊行会。「人形と冬眠者と聖フランチェスコの物語」。

これはどう感想を書いたものか、とても悩みます。完璧に美しい。しかしさっぱりわからない。粗筋を抜き出したところで意味はないし、各パートの関連性は他の関連性をお互いに否定しあうような気配さえある。帯の「人形と〜」という説明はこれ以上なく簡素に正しいけれど、何一ついいあらわしてはいない。
「銅版」
「閑日」
「竈の秋」
「トビアス」
「青金石」
の五つの章から成り立つ連作小説。箱入りで布張り、ハトロン紙のカバーがついて、帯まで美しい装丁。

「わたし」は駅で列車を待つ間に、深夜営業の画廊に入る。画廊には古色蒼然たる銅版画が飾ってあり、画商が言うには小説の挿絵で画題を<人形狂いの奥方への使い><冬寝室><使用人の氾濫>という。
そういえば、以前にも似たような光景を目にしたことがある。そのときは「わたし」はまだ小さく、母に手を引かれてやはり列車待ちの時間潰しに画廊へ入ったのだった。その時見た絵のタイトルは<痘瘡神><冬の花火><幼いラウダーテと姉>だった。

霜月の第四週からはじまり、春先まで続く冬眠のさなかに、ふと目覚めてしまった冬眠者の少女は、冬眠の間締め切られる塔の棟の中から、窓の外を彷徨うゴーストを見つけ声を掛ける。冬眠しない使用人たちに助けを求めるが応じてもらえず、眠ることもできない少女は凍死を免れるため、塔の棟の窓からゴーストの導きを頼りに飛び降りる。

「閑日」と「竈の秋」で、冬になると冬眠してしまう冬眠者の物語を、「銅版」と「トビアス」で冬眠者の物語の小説についている挿絵と「わたし」の物語を、「青金石」では聖フランチェスコの元を訪れた冬眠者の青年が語る春の光景を描いています。
冬眠者の住む館を舞台にしたエピソードと、「青金石」はつながっている。「わたし」が語る絵のエピソードと、冬眠者の物語はつながっている。しかし「トビアス」で突然、「わたし」はにんげんが少なくなってガソリンの備蓄も尽きようとしている日本の片田舎で生まれ育ったと、冬眠者の館があったのとはかけ離れた世界の話をはじめる。そこから更に一転して「青金石」では西暦1226年の春、聖フランチェスコの物語に。
どう縺れてどう絡んでいるのか、どうほぐせばいいのか見当もつかない複雑なエピソードの関連は、一度読んだ程度では整理のしようがありません。最初は、「わたし」のエピソードに枠取られた冬眠者の物語、そこにまったく独立した聖フランチェスコの物語がついているという形に見えたのですが、感想を書くために整理しようとしたら、逆に絡んで渾然一体となってしまい、もはやわけがわかりません。
この辺りが参考になるかもしれません、『ラピスラズリ』刊行山尾悠子インタビュー。
http://www.kokusho.co.jp/yamaointv.htm

読む前にはレビューサイトで「したたるような美文」と言われていたので、てっきり牧野修のような腐敗寸前までただれた美文を想像していたのですが、物語の季節がもっぱら冬であるためか、予想とはまったく違った硬質で端整な文章ででありました。いやしかし完璧に美しいことは間違いありません。登場人物にも小道具にも舞台にも、作者の偏重がうかがわれないのが良かった。特定の傾向に執着するのは、それはそれでうつくしいのですが、この突き放したようなバランスの良さはたいそう心地よいです。
次は恐怖の『作品集成』8800円+税ですよ……。いつになることやら。

『賭博者』

2005年11月18日 未分類
ドストエフスキー、原卓也訳、新潮文庫。

一家でルーレット(賭博場)のある温泉地にやってきたロシアの将軍。その家で家庭教師をしている青年が、賭博にのめり込んで人生の一切を博打につぎ込む話。

薄いのでさっくり読めました。昔ならポリーナと主人公の関係に喜びときめいたところですが、今はぼんやりと「恋に狂うってこういうことなのだなあ」と思ったのみです。残念。
「おばあさま」が財産をルーレットでそっくりはたくくだりや、主人公がルーレットで思い切った賭け方をしてそれが突然おそろしくなってしまうくだりなんかは、まったくリアルでした。博打は掛け金をかけてから結果が出るまでの間に、突然いいようもなく怖くなって逃げ出したくなるのに、いい結果が出るとその最中のおそれも怯えも一切消えてしまい、また次の勝負に出たくなる。負ければ負けたで悔しく、他人にそれを悟られるのも嫌で、儲けが消えただけでも身銭を切っていてもやはり負けた悔しさでやせ我慢をしながら次の勝負に出る。そのうちに見栄を張ることも忘れて熱狂してしまう。
世の中には勝っても負けてもテンションがあがる一方の人がいるようで、こういう人は博打にのめりこんだら生半可なことではやめられないのだろうなあと思います。そして負けても大丈夫なように、できるだけ儲けが残るようにと安全な勝負をしたがる人間はギャンブルでは勝てないのでした。
ちょっと身に沁みている。
ポリーナが主人公の部屋へやってきたとき、それがどいういうことなのか、ポリーナの決意がどれほどのものであるのか気付かずに、「一時間だけ待っていてください」って置き去りにした挙句、お金の話をはじめてしまった主人公。それはポリーナ怒るよ、怒るに決まってるよ。ここでルーレットに勝ってしまった、それも大勝ちしてしまったせいで人生を棒に振ることになり、そのまま博打の虜になってしまったその後の主人公を見ると、まさしく「博打に勝って人生に負けた」という感じ。
マドモアゼル・ブランシュの、最初はひたすらお金を持っている男目当ての態度は鼻につくばかりだったのですが、主人公がルーレットで大勝ちしてポリーナに捨てられてからが素晴らしく素敵でした。昨日まで視界の端に入れようとすらしなかった主人公に向かって、突然「一緒にパリに連れて行ってあげる」と言い出し、ストッキングをはかせろとベッドの中から脚を、美しい脚を突き出す。主人公が博打で勝った金を、二ヶ月と持たずに使い果たし、そして主人公をあっさりと捨てる。お金に汲々として振り回される登場人物が多い中で、ものの見事にお金を使い捨てにして惜しまない態度が潔い。主人公にお金が入った途端に豹変するところも、豹変して受け入れられるのが当然と思っているところも、前半のただ「将軍夫人」になりたいだけにしか見えないときよりはるかに魅力的でした。
『ラピスラズリ』山尾悠子、国書刊行会。ついに買いました。三千円近くするので、高いなあと思っていたのですが、箱入りハードカバーで実に凝った装丁、国書刊行会ということで納得のお値段。ハトロン紙がカバーとしてかかっていたのですが、しわしわで悲しいのでアイロンかけようと思います。
挟み込みのチラシを見ていたら、『珍説愚説辞典』というたいそう面白そうな本が紹介されていました。4500円+税。高い。くそうさすがだぜ国書刊行会!
そして「妖怪の本」として紹介されている好評既刊と新刊、ずらっと並んで3400円6800円4000円4000円7600円。高い。そして多田克己京極夏彦分高め。

ネットで本を探していたら、『ファウスト』がついに分冊になるとか、『作家養成講座 官能小説編』という素敵な本があるのだとか、色々面白いことを知りました。

それにつけても金の欲しさよー
サンテグジュペリ、池澤夏樹訳、集英社文庫。

初めて読んだのがいつなのかは覚えていないのですが、絵本のような体裁の、横書きハードカバーだったように思います。図書館から借りてきたのは間違いない。そのときは「君はバラに責任がある」という台詞の、一種武骨な感じさえただよわせた直截な言い方が印象に残ったのでした。キツネが王子さまに向かって言った「飼い慣らす」も、およそ友だちになるとは程遠い、支配-服従の・隷属の関係を言い表すのに使うような言葉を「自分たちはまだ友だちではないから」という意味で使うとはなんとおそろしいセンスだ、と仰天したのでよく覚えています。
で、正直に申告すると、「池澤夏樹の新訳でよみがえる星の王子さまの世界」という帯がついているのですが、池澤夏樹を一冊も読んだことのないエセ読書家としてはいったい何が新しいのかさっぱりでした。池澤夏樹訳とそれ以外を読み比べろということなのかしらん。
バラは相変わらず素敵な女性だけれど、わたしの記憶の中では、準備して準備してようやく日の出の時間に咲いたとき、完璧に咲き出でながら「目が覚めていなくって、ひどい姿でしょう?」となおその姿が完璧でない振りをする、虚栄心と切って捨てることができないほどの見栄と意地を張っていたのが、この訳では「彼女は準備にとても手間をかけて疲れたのか、あくびをしながら言った――」になっていて、ちょっと残念でした。はじめて読んだ訳が誰の訳なのか、どうしてメモとって置かなかったのでしょう。反省。
酒飲みの「恥ずかしいんだ、酒を飲むことが」という告白がだいぶ身につまされました。恥ずかしいんだ、恥ずかしいと恥ずかしがることそれ自体が。忘れたいけど酒と違って恥ずかしがっても恥ずかしいことは忘れられないぜべいべー。
「でも、はかない、ってどういう意味?」
「それは、すぐにも失われるかもしれない、という意味だよ」
キツネは素敵だ。ほんとうに素敵だ。秘密を教えるためだけに、飼い慣らされて飼い慣らし、王子さまにその口から、
「きみの悲しみが消えたとき(悲しみはいつかは消えるからね)、きみはぼくと会ったことがあるというだけで満足するはずだ」
と言わしめるキツネ。なんてひどいやつなんだブラボー。すばらしい。ひどいこと、はとてもわたしの心を打つ。
この本を読み終えて思うのは、ひとつひとつのエピソードに作者が何を伝えたかったのか読み取ろうとするより、エピソードが自分にとってどういう意味に思えるか、自分がどういう風にとらえるかの方が大事で、難解でわかりにくい物語から無理に教訓的な意味を読み取ろうとするよりも、相対するたびに自分が変わっていることを感じることができる道しるべみたいなものだと思えばいいんじゃないかしらということです。
かんじんなことは目に見えない、つまり「考えるんじゃない、感じるんだ!」

どうしようもないオチですね。
気分が宜しくないので本を買ってきました。
『星の王子さま』サンテグジュペリ、池澤夏樹訳、集英社文庫。
『賭博者』ドストエフスキー、原卓也訳、新潮文庫。
『マイブック』新潮文庫。2006年の記録をつけるため自分の本。

三島の『春の雪』が映画化ということで平積みになっていましたが、どうせなら豊饒の海ぜんぶ平積みにしておいてくれればいいのになー。

『天球儀文庫』

2005年11月11日 未分類
長野まゆみ、河出文庫。「天球儀文庫」というシリーズ名で刊行された初期作品4冊をまとめたもの。秋の新学期から翌年の夏期休暇まで、アビと宵里二人の少年が過ごした日々を描く。
「月の輪船」
「夜のプロキオン」
「銀星ロケット」
「ドロップ水塔」
4編を収録。

初期作品ですから、それはもうどこの国ともつかない洋風の街を舞台に、気の利いた文房具や季節ごとのお菓子、ちょっとした冒険や不思議なできごととの遭遇が楽しげに乱れ飛んでいます。

色や植物をあらわすのに選ばれた名詞は、もはや現実の事物からはほとんど乖離して、言葉から連想されたイメージが先に立つようです。長野まゆみが描く少年は、単に年齢が十代の人間・男ではなく「少年」という別様の生き物であるわけですが、作中に現れるさまざまな名詞もわたしにとってはカギでくくった物語中の存在、現実のそれとはもはや結びつかない想像上の存在なのです。

あとがきで「昔洋風、今和風で〜」と作風の変化について作者自らその理由を述べています。わたしは和風でも洋風でもあの美しさが損なわれない限りは一向に平気なのですが、問題はそこじゃない気がするのです……。うん、絶対そこではない。
そしていつも思うのですが、後書きでの作者はおそろしいほど大上段なものいいをしますね。確かに、毎回必ずわたしの知らないうつくしいものについて言及していて、そこはいつもひれ伏して尊敬しますけど、最近ちょっとげんなりさせられることが多いような。

そしてものすごくびっくりしたのがこれ、本当に河出文庫なのですか!どこからどう見ても講談社文庫です。慌てて手元にある講談社文庫を引っ張り出してきて比較してしまいました。以前の白地に紺色、マットな質感の紙を使用したデザインが独特で好きだったんですが……時代は変わる。

買いに走って

2005年11月1日 未分類
高村薫、『新リア王』上下巻、新潮社。
無事ゲット。

でも今日から本気でゲームも始めるの。感想は後日なの。わたしやっぱり骨の髄からオタクなの。
北方謙三、幻冬舎文庫。

上巻がいきなり池田屋の真っ最中からはじまって、一番盛り上がって衰退するところからはじめていいのと驚きましたが、甘かった。主眼は伏見鳥羽以降、大政奉還・徳川慶喜京退去のあとからでした。
下巻は鳥羽伏見の戦いに敗れた新選組が江戸に戻ったところから、転戦を繰り返し、函館五稜郭で「土方歳三」が死亡するまでを斬新な解釈でもって描いています。
どれくらい斬新かというと、甲州から蝦夷地を目指して転戦する土方歳三の目標を「蝦夷地新国家樹立のための慶喜移送作戦」として、西郷隆盛の手の者と暗闘を繰り返しながら北上する脱出劇が展開されています。蝦夷地についても必要とあらば江戸まで戻ったりとまさしく縦横無尽。
「本書の執筆にあたって北方はありふれた史実や常識を繰り返すことなく、その間隙を縫って独自の解釈・視座を打ち出したのである」(解説より)
もしかしたら全部とは言わないけれど、一部こんなことが本当にあったのかもしれないと思わせる展開で、ときどき我に返ってしまった自分が大変興醒めでした。我に返らず最後まで読めばどんなに楽しかったかと、途中で我に返ったことが大変悔しい。考えるんじゃない、感じるんだ!
近藤謎の投降も納得がいく決着がついていましたし、榎本の優柔不断ぶりや大鳥圭介の拙劣さも非常によかった。まさかの島田出ずっぱりには、ついには愛着がわいてきました。狷介な大石の壊れてゆく姿もきちんと書かれるとは思っていませんでした。
下巻で一番重要な位置を占めていた西郷は、ものすごく嫌な感じの化け物として扱われていて、背が高くて細身で陰険悪辣な西郷隆盛像がとても新鮮でした。多かれ少なかれ、いい人として扱われていることが多かった西郷がこれか!とこれもまた斬新で感じ入る。作中でその力を散々に振るいながら、ついに一度もはっきりと顔を見せることがなかったそのありようが、登場人物たちに対してだけでなく、読者に対しても貫かれているのがまた良かった。
主人公の土方歳三は、不撓不屈で実戦指揮なら常勝不敗、剣の腕も立つ、非常に有能で冷徹で熱血な人物で、割とよく見る造形なのですが、蝦夷地に新国家を樹立する夢に賭けているという一点で、全てが何もかも新しい。どんなに戦況が悪化しようと、決して投げない不屈さにむやみに憧れる。
「俺は、侍ではないのだな。ぱっと散ることが性に合わん」
何故に昔自分が、この新選組副長に熱烈に憧れたのかわかった気がしました。
ところで帯なのですが、「こんなにロマンティックな幕末小説があったのか!」という煽り文句も書いてあります。
北方謙三ってハードボイルドなのにロマンティックというおそろしい両立をこなしていますよね。そして北方を「ロマンティック止まらない」と思っている人間が自分だけでないことに安心しました。

『黒龍の柩』

2005年10月24日 未分類
北方謙三、幻冬舎文庫。

まず笑いの種扱いしたことを、土下座してお詫びしたいと思います。切腹は痛いので勘弁して。だって帯を書いた人がいけないよこれは!てっきり、土方-坂本間で怪しい協議が成立して、途中から偽史・パラレル・大逆転・if・もしも、などの「超展開」が繰り広げられるのかと思ってしまったのだもの。
その勘違い自体が妄想の域を超えた超展開だと何故気付かないわたし。

上巻読み終わっての感想を一言で言うなら、「新選組なら司馬遼太郎に止めを刺されているわたしでも大喜び」でしょうか。近藤は駄目な人ながら嫌味ではなく、沖田の純真さはそのまま可憐であり、山南さん脱走の理由が切なくて大変よい。
それにもまして、勝海舟がおいしいところを一人でさらっていっていますよ。
ずーっと登場、ずーっとおいしい勝海舟を見ていると、そういえば昔むかしは坂本龍馬より勝海舟が好きだったことを思い出します。貧乏御家人の育ちで、江戸っ子で、77歳まで生きて病死したところがわたしの好みでありました。そんな理想に限りなく近い北型版勝海舟が素敵すぎ。
勘定奉行の小栗さまも素敵だ。大人げがなくて頑固で偏屈で。勝に対する態度が面白くて、「じーさん大人気ない」と思っていましたが、今調べたら勝1823年、小栗1827年で、小栗のほうが年下でした。うはあ、なんて思い込みをしていたのか。
土方さん主人公らしいですが、峻烈で冷徹で熱血な、思う通りに格好良い男前でしたので大変満足です。ちらちらと見える可愛げがまたいいのです。
そして島田魁に見る、人物造形の輪郭の切り出し方のあざやかな手際にしびれました。たったあれだけの描写と登場で、島田がどんな人間として存在しているのか非常によくわかり、想像の中ではっきりくっきりとした輪郭を持って浮かび上がってきます。島田魁自体には思い入れは余りないのですが、これは見事にキャラクターが立っている。ここでキャラ立ちという安直にして軽薄な表現しかできない語彙の貧しさが悔やまれます。
登場人物の多くが、日本国内の騒乱というだけでない時代の捉え方をしており、新選組にもワールドワイドな視点を持つ人間がいたという解釈が新選です。純粋に剣だけに生きるのがほとんど沖田だけで、みな少なからず時代の動きと政争と諸外国について思いを巡らしているというのは今まで見たことのない造形です。大抵、世界を視野に入れているのは維新志士側という印象が強いので。
坂本が「ぼく」と言い出したのには、びっくりのあまり椅子から転げ落ちるかと思いました。

また購入日記

2005年10月20日 未分類
『黒龍の柩』北方謙三、幻冬舎文庫。上下巻。

帯に「土方歳三、龍馬の計画に己の夢を賭ける」って書いてるのがおっかなくて、
「家主ー、北方版新選組が文庫で出てたよー。帯がねー」
「中身はどんなだった?」
「どっからどう見ても北方でしたね。作者名伏せてもわかるね」
「あー」
という笑い話の種にしたのですが、家主が即座に反応、
「特別予算を組んであげるから買っといで」
ということで購入。
家主はもしかして北方を笑いの種として好きなんだろうか。

漫画買い

2005年10月20日 未分類
『HOLiC』7巻を買ってきました。帯の紙が油を吸いやすいらしく、またしても指紋をつけてしまいました。いやん。
紙に書かれた文字と虫というと、『蟲師』のお嬢様を思い出します。箸でつまんで紙にぺたんぺたんと。
加藤尚武、講談社学術文庫。

うーん、講談社学術文庫はいい仕事をしているなあ。最近つくづくそう思います。
「現代の倫理学で議論される原理的な問題と応用倫理学で取り扱われる内容を、明確に描き出したい」(あとがきより)
倫理的であれ、道徳的であれ、正しくあれと言うけれど、ではその「倫理」「道徳」「正義」の基準は一体なんであるのか。何処にあるのか。どう決まるのか。
「この本は、臓器移植や環境問題、ナチスとアンネ・フランクというような現代の道徳的なジレンマ・難問を中心にして組み立てられている。われわれの生活文化の中に、同じようなジレンマ・難問が発生する可能性がいつもある。倫理学は、問題が発生した時の用心に解決の型を用意しておかなくてはならない」(まえがきより)
倫理という言葉は知っているけれど、倫理学って一体なあに?という人にも、まえがきのこの言葉ですぐに理解されると思います。ところどころ専門用語や学術的な記述があって、「読み物」としてはちょっと難易度が高すぎるのではないかしらという気もしますが、わかるところだけわかるように読んでも面白い話題がたくさん取り上げられます。

第1章 人を助けるために嘘をつくことは許されるか
第2章 十人の命を救うために一人の人を殺すことは許されるか
第3章 十人のエイズ患者に対して特効薬が一人分しかない時、誰に渡すか
第4章 エゴイズムに基づく行為はすべて道徳に反するか
第5章 どうすれば幸福の計算ができるか
第6章 判断能力の判断は誰がするのか
第7章 <……である>から<……べきである>を導き出すことはできないか
第8章 正義の原理は純粋な形式で決まるのか、共同の利益で決まるのか
第9章 思いやりだけで道徳の原則ができるのか
第10章 正直者が損をすることはどうしたら防げるか
第11章 他人に迷惑をかけなければ何をしてもよいか
第12章 貧しい人を助けるのは豊かな人の義務であるか
第13章 現在の人間には未来の人間に対する義務があるか
第14章 正義は時代によって変わるか
第15章 科学の発達に限界を定めることができるか

「囚人のジレンマ」という有名なゲームについて説明されているくだりを立ち読みで読んでみるのもいいかもしれません。全体にずばりと爽快な語り口で、座右の銘にしたいような名言が目白押し。
「現代で特に功利主義批判が重大な課題になってきているのは、実はベンサムやミルの時代にはまだ発生していなかった功利主義と自由経済と民主主義の組み合わせシステムができあがってしまったからである(中略)。歴史的に言えば、世俗化、市場化、民主化はばらばらに起こった出来事で」ある、という指摘にあっと意表を突かれました。そういえばそうだ、現代という時代とシステムに生きているわたしには、この三つの組み合わせは自明であり、最初からそうであったような錯覚を抱いていますが、近代化などというものはまさしく「近代」のものでしかないのですよね。成る程なあと思うと同時に、時代背景によって「正しい」ということが左右される可能性にも思い至り、倫理や道徳などの絶対的なイメージのあるものの、実は相対的なものでしかないのかしら、と「波の来ない砂漠で、砂上の楼閣の上に暮らしている現代人」の現状に、そこはかとない不安を感じもします。後のほうの章でその「相対主義」も否定されてしまうわけですが。
第7章の「〜である」と「〜べきである」の関係は、この間読んだ『子どもための哲学』の中で論じられている「悪いことはしてはいけない」という疑問とほぼ同じです。続けて読むと理解度が上がって興味深い。
功利主義の問題点を語るとき、しきりとカントが引用されるのですが、カントのこういった解釈をはじめてみたのでびっくり斬新です。カントといえば「ア・プリオリ」と「理性」のイメージしかない貧弱な知識がいかんのですけどね……。
わかるところだけを読みたいように読んで、わかるところだけ好き勝手に楽しむ読み方ができる入門書。もっと知りたいと思わせてくれたポイントだけ、引用と紹介に従ってさらに専門書を読むというやり方もできます。
H・P・ラヴクラフト、大瀧啓祐訳。

「宇宙からの色」
「眠りの壁の彼方」
「故アーサー・ジャーミンとその家系に関する事実」
「冷気」
「彼方より」
「ピックマンのモデル」
「狂気の山脈にて」
資料として「怪奇小説の執筆について」を収録。
最初にまず言いたい。

なにこの直訳。

直訳調を通り越してます。読みにくいったらありません。3巻はそれほど気にならなかったのですが、こちらはときどき「原文を見せろ!」と叫びたくなるようなおよそ硬直しきった文体に、原文では本当にどうなっていたのかと確かめたくなるような単語がちらほらと意味不明に文中で浮いています。おかげでいたくモチベーションが低下して、読み終えるのに時間がかかってしましいました。
それなのに、7巻までこの人が訳なのですね……。うわあどうしよう。やる気が逃げていく。
前巻の感想で、ラヴクラフトは怖くないよーと言ったわたしですが、訂正したいと思います。「宇宙からの色」がごっつい怖い。井戸の中にいるものよりも、井戸の中に呼び込まれた家族の狂気と変容が怖い。家の敷地内にある井戸に、深夜水を汲みに行ってそのまま帰ってこなくなる。それも息子が二人、一度にではなく二度に渡って。周囲の景色も地獄のようなありさまで、誰一人近寄ることのない家の中で、一家がじわじわと狂気と身体的な変容にさらされている状況を想像すると、怖気をふるいます。ううおっかない。
個人的に気に入ったのは「冷気」と「ピックマンのモデル」です。前者は短い尺の中での「冷気」に対するこだわりようと、オチが素敵。後者は語り手が「きみ、きみ」と、しきりに聞き手の「エリオット」に語りかける台詞のみで構成されていて、聞き手のエリオットの台詞は一切なし。これはもしや二人称?二人称の小説なんてめったにお目にかからないので、明確な分類は知らないのですが。しきりと名前を挙げられる「コットン・マザー」が何者かわからず非常に気になります。案内なしでは二度とたどりつくことのできない、暗い幻想のような街並みのイメージが「エーリッヒ・ツァン」のオーゼイユを思い出させてとても好みです。この「一度は行けたのに二度と発見できない」場所や街というモチーフがとても好き。
白眉らしき「狂気の山脈にて」は、

「テケリ・リ! テケリ・リ!」

に大爆笑してしまって、なにもかもが台無しでした。
てけりーり〜♪てけり〜り♪
さあ貴方もご一緒に恐怖のショゴスベッドにダイビング!などの、ろくでもないネタが頭の中をぐるぐると。多方面に展開する、多方面でイメージが形成される作品については、最初に出会ったものが作品に対する全体的な心象を決定してしまう、ということを改めて思い知りました。
よかった、ダンウィッチは多分最初にまともな本で読んでいるはず。
古橋秀之、電撃文庫。「”フツー”の男の子と”フシギ”な女の子のボーイ・ミーツ・ガール」

「ある日、爆弾がおちてきて」
「おおきくなあれ」
「恋する死者の夜」
「トトカミじゃ」
「出席番号0番」
「三時間目のまどか」
「むかし、爆弾がおちてきて」
『電撃hp』に連載された6本に書き下ろし1本を加えての文庫化。
どれが書き下ろしなのか雑誌をチェックしていないわたしにはわからないわけで。どこかに初出一覧がないかと探しても、この文庫を見る限りではどこにもないわけで。どーれなーのよーう。
いわゆる「黒古橋」の本しか読んだことがないために、このライトな内容とライトな文章に驚天動地。え、なに、すごく普通だどうしたの?と驚きのあまり著者名を確かめた人少なくともここに一人います。
でも、時々なんだか微妙な感じのネタというか、ぎりぎりなネタのほのめかしがちらほらとあります。爆弾の名前がピカリ……。しかもヒロインの名前が広崎で主人公が長島。これは一種露骨なほのめかしではありませんか。
「恋する死者の夜」は開始三行目で「地獄はここだー!」と叫んでしまうような開幕、そして直後に恐怖のヒロイン登場。

「 ま も る く ん あ さ だ よ う 」

さっき叫んだばかりなのに、再びぎゃーと恐怖に叫びました。超怖い。なんなんのこの地獄っぷり。あれ、そういえば、この凄惨で美しい地獄の雰囲気はどこかでお目にかかったことがあります。なんだろう。出てこないということは、ちゃんと読んだことがない本かしら。恋するゾンビ少女……皆殺し……とりあえずgoogleさまにおすがり。「恋 ゾンビ 少女」で検索。ああ、なるほど!
単純にライトなだけとは言い切れないのは、どす黒い気配を外から見えないようにきちんと丁寧に包んでいる感があるからでしょうか。
いつもの通り個人的ポイントの高かったエピソードその他をだらっと書いておきます。
「おおきくなあれ」の主人公、本当に普通なのか。この機転の具合というか口の達者なところは、日常ラブコメ系のエロゲー主人公を彷彿とさせます。ヒロイン高峰185センチ、主人公小暮158センチという関係が絶妙だ。「ぴんぴろがくるぞー」。
「出席番号0番」月本が非常に好みです。対比される日渡も可愛い。登場人物名が日渡・月本・火浦・水里・木崎・金子・土屋と、さりげなく細かい。
「三時間目のまどか」電話でアンハッピーエンドなら乙一。古文教師の声が特定の人物の音声で脳内再生されて笑い転げました。
「むかし、爆弾がおちてきて」時間の固形化という発想がどこから出てくるのか想像できません。
「あとがき」「あんたらよく育つなあ!」という一言がツボりました。
面白かった。
古橋秀之の『ある日、爆弾がおちてきて』げっとー。
新刊が出るぞというのは知っていたのですが、一体何処から出るのか知らず、『キノ』の挟み込みチラシを見て慌ててネット通販で確保しました。
ライトノベルって実に楽しげで、読んでみたいものが沢山あるのですが、刊行ペース速いわ量が多いわで、とても買い集めることができません。貧しい財布を嘆く。
永井均、講談社現代新書。

<子ども>と自分で哲学をする人のための入門書。表紙に、
「悪いことをしてはなぜいけないのか。
 ぼくはなぜ存在するのか。
 この超難問を考える。」
と書いてある通りの内容。子どものころ不思議だった、大人が当たり前のことだとしか教えてくれなかったあの不思議、秘密に迫ろうとする感性が哲学の基であり、「ほんとうは哲学は子どもの素朴な疑問から発したものなのだ」と日本語の「哲学」という単語にまつわりつく、難解であるとか高級であるとかの暗くてじめじめしたイメージを振り払い、自分で哲学するということへ誘う一冊。
「ぼくは何故存在するのか?」という疑問は、自己と他者との明らかな隔絶を感じる人には非常に馴染むと思います。他人と他人の違い方と、ぼくと他人の違い方は、同じ「違い」でも異次元のようにかけはなれている。<ぼく>を他人の体の中に入れても、それは「他人の体の中に入った<ぼく>」であり、更に記憶を書き換えても、それは「記憶を書き換えられて他人の体の中に入った<ぼく>」であり、どこまで行っても<ぼく>は<ぼく>であるという議論が展開されています。わたしが理解するに、「ぼくのコピーロボットを作ってもそれはぼくじゃない。でもその中に<ぼく>を移せば、たとえ機械の体でもそれは<ぼく>だ」という状況で、「ではその中身、肝心要の<ぼく>って一体何なの?」と問うことなのでしょう。
でも、この論旨で行くと、他人たとえば君の中身を他人に移し変えても、それは唯一無二なる君だという状況が成立してしまう。これでは<ぼく>こそが他者とは違う唯一無二、比較のしようがないものとして問題を立てたのに、みんなに適用可能な「みんな」の問題、状況になってしまう。<ぼく>だけの話をしていたのに、どうしてみんなの話になってしまうのか?これは困った、さてどうしよう。
と、いう具合にこの存在する唯一無二の自分とは何か、をじりじり追求していく「なぜぼくは存在するのか」が前半、一つ目の問い。
二つ目は、悪いこと、としてはいけない、あるいは善いこと、としなければいけないの間には、なんの必然もないのに、どうして大人は「悪いことをしてはいけない」と言うのか?という問い。
悪いことは、たとえば他人に迷惑をかけるから/他人を不快にするから、できればしないほうがいい、できるだけしないほうがいい、その方が社会として上手く行くのだから、理想として、スローガンとして掲げるなら「してはいけない」になるのだよ、という自分解釈でわたしはとりあえず「上げ底」を埋めておきましたが、どうせなら徹底的にやってみるのが哲学でしょう。
と、いうわけで、「よいこと/わるいこと」には「善悪」「好嫌」の二つの軸があるという発見を手がかりに、道徳がわたしたちに要求する「悪いことはしてはいけない」の仕組みを解体しようという試み。
二つの問いはともに「結論はまだ出ていない」としめくくられます。それはつまり「このような問題や考え方がある、この問題を自分のやり方で考えてみないか?」という「お誘い」がこの本の目的なので、まったく当然の結果でもあります。
が、二つ目の問いが「二つの世界解釈がある」辺りで投げられてしまっているのが、いくらなんでも中途半端な感じです。一つ目はどうしてもここまでしか今は進めないんだ、と納得するところまで詰めてくれているので、余計に勿体無い。一つ目では「ああまだ未解決なんだ」という満足を得られましたが、二つ目は消化不良で苦しみそうです。
この本のもう一つのテーマは、おそらく粉飾された哲学のイメージに対する反抗なのではないかしら。哲学といったときに思い浮かぶ日本語のイメージは、「難解で高級で、陰湿で根暗でそして人生に対する教訓が得られる」で当たらずとも遠からずだと思われます。それは違う、哲学というものは<子ども>の発する、あのなんの利得もないのに知らずにはいられない疑問、そしてそれを解こうと、自分の力で考えることなのだと著者は繰り返します。この<子ども>の疑問は、大人になる頃には忘れ去れて「上げ底」されて埋められてしまいます。この「上げ底」が気になってどうしても忘れることができず、みんなが当たり前のように上げ底の上で暮らしているのに、自分を納得させる理屈を見つけて自力で上げ底を埋めないとみんなと同じラインに立てない、そういう不器用な<子ども>が哲学者に向いているのだという話を聞いて、深く納得しました。上げ底の上で生活する大人は、その上げ底を直視しないことで確固たる存在にしていますが、<子ども>は直視するが故にその上にあがることができない。こんな<子ども>には哲学が大きな助けになるのではないかしら。哲学をせざるを得ない大人は、中身が<子ども>で実社会を生きていくのがとても大変そう。
ところでわたし、竹田青嗣の本は一冊も読んだことがない上に、本文中で問題となった発言のほとんどがさっぱり理解できなかったのですが、<子ども>のための哲学をするよ、粉飾を剥ぎ取った、素手での哲学を始めるよ、という連載に対して「そういう現代思想の動向を踏まえて言うと」なんて発言するひとはとっても信用なりません。著作を読む前から、この人はもしかしてアレなんじゃないかしらと疑心を持ってしまいました。今後読む機会があれば、ぜひ自分の目で確かめてみたいです。
みんなが当たり前のように適応していることが、どうしても飲み込めない、ようやく理屈をつけて飲み込んで、みんなと同じところに行ってみたら、みんなそんな理屈、当然のように知っていて、それを踏まえて上にいた。こういう状況に頻繁に遭遇して、どうしようと途方に暮れる不器用っ子は読むと勇気付けられるんじゃないかと思います。

『キノの旅9』

2005年10月12日 未分類
時雨沢恵一、電撃文庫。

数字はローマ数字なのですが、機種依存文字なので便宜的にアラビア数字で表記。さて今回のあとがきは、

ぶへえ。

毎回予想を斜め上45度でキリモミ回転していくような発想が素晴らしいです。うっかり飲んでいたお茶を吹き出すところでした。でも帯っていつもついてるとは限らないのでは?なんて野暮なことは言いっこなしですよ!著者近影の「背伸びする筆者」もとてもおかしい。
カラーページの凝りようといい、イラストの置き所といい、版面にこだわったデザインといい、トータルでものすごく気を使ってあるのがよくわかります。隅々まで神経の行き届いた、文庫というのが信じられないクオリティ。「作家の旅」のラスト、決めの台詞と改頁のタイミング、鳩のイラストの三者が内容にがっちりリンクしていて、絶妙の効果です。思わずまたお茶を吹きそうになりました。「続・戦車の話」も、ものすごいタイミングでイラストが挟んであって、もうたまりません。
黒星紅白の描く、線の太い白黒の絵がかなり好き。文章と絵のあった、いい組み合わせだなあ。他に気に入ったエピソードは、「いい人達の夕べ」。伏字の取り扱い方がほんとに上手い。字数に関わらず「×××××」に統一のお約束が最高。内容が想像できるようで見当もつかないこの罵詈雑言、「×××××」が目に入った瞬間からきたよきたよとわくわくします。
「続・戦車の話」ヒトガタ無機物どころか、戦車に萌え萌えする日がこようとは思わなんだ。……そういえば大抵の軍備には萌えることができるじゃないわたし。しまったー。「説得力2」格好いい。

ときどき「別に言うほど深いわけでもすごいわけでもない、むしろ薄っぺらい」という感想を耳にします。その時に思ったことなどつらっと。
ちょっと皮肉で残酷で、美しい世界を、ちょっと変わった世界観で書いてるだけで、それほど設定が深いとか、人生の真理に迫るとか、人間の葛藤の深遠を垣間見せるとかいうことはない、という感想には同意します。が、わたしが面白いと思うポイントはそこではなくて、皮肉も残酷もありがちな程度はあるけれど、それを感傷と自己陶酔にひたらずに淡々と書いている作品というのが珍しいのではないかと思うのです。こういった物語が、自己陶酔の極致のようなべたべたした文章で書かれているのに辟易した記憶があるかたは同意してくださるのではないかしらん。何があっても主人公は傍観者、巻き込まれても自分の安全を最優先して通り抜けていく、そんな物語を他には寡聞にして知らないのです。
この突き放し具合を気に入って読んでいる人もいるのではないかしらーと「言うほど内容は大したことない」という感想を聞くたびに思うわけです。
次の後書きがどうなるのか、今から楽しみでなりません。
ライアーソフト、相島巻、角川スニーカー。

原作はライアーソフトの土下座調教西部劇『エンジェルバレット』(18禁)。いわゆるノベライズ。

ものすごく面白くない。

元ネタが激しく面白いからこれでも一応面白くはあるのだけれど、ゲームを知ってる人間が満足できる独自の面白さはほぼゼロ。買ってよかったと思えたのは、調教新ネタ部分くらいかしら。
「75度」「銃を抜きますか」などこれぞという台詞はピンポイントで採用されていましたけど、「一人で買い物に行くのはいやだったんだ」がないので減点。「彼にとってはもはや怒りそのもの」もないので更に減点。
減点以前に魔城突入→ゲオルグ打倒で小説が終わっちゃっているので、後者は採用のしようがないんですけどね……。わかっちゃいるけどやさぐれる。
長さの都合上出番を削られた登場人物が、下手をすると両手で足りないのはまだしも、こんな中途半端なところで終わらせて何をする気だったのか。
忘れていたのですが帯の「神父」は間違いですね。牧師なんだよ!牧師じゃなければいけない理由がちゃんとあるんだよ!ひどいです角川。こうなると登場人物紹介の「メイザー=神父」もわざとなのかうっかりなのか疑わしくなってきます。絶対間違えたんだろう。今見たらクラウスも「神父」って表記されてるし。ああもうどうしてくれよう。
いい加減、ノベライズ買っては腹を立てるという繰り返しをやめたい……。

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